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カタリナの独白 1

──兄の屋敷を出てから、半年が過ぎた。


私は王城にいた。荒削りの岩山の上に建つ、王都からは見上げるような建物の中に。
貴族の一員だったけれど、王城は私にはまったく縁のない場所だった。王城へ行ったこともなければ、それを見たことすらなかったのだ。数年前に王都へ来るまでは。
──私の名はカタリナ。カタリナ=ゴドセヴィーナ。
ゴドセヴィーナ家は伯爵家だ。ウルヴァキア王国の北方に領地を与えられていて、父がその領主をしている。兄のフランツはその補佐役を務めていた。最近では、老いて物が分からなくなってきた父の代わりに、兄が領地内のほとんどのことを取り仕切っていた。
兄のことはあまり思い出したくない。最近では特にそうだ。
実の兄妹でありながら、私と兄──いや、フランツと呼ぼう。そのほうがいい。
私とフランツは、長年、人に言うのが憚られるような関係にあった。そのことはずっと私の胸の中に、消えない棘のようになって残っていた。美しい薔薇の、残酷な棘だ。それはいつも私を苦しめた。楽しい時も、愉快な時も、その棘の存在を思い出した瞬間に、すべてのものが色あせていくのを感じた。
私は神に背いている。──その、押し寄せるような暗い後悔。
フランツの考えていることはいつも分かりにくかった。彼は私を愛していると言ったし、そういうそぶりも見せてきた。しかし、今になって思うのは、彼はやはり私をこれっぽっちも愛していなかったのだということだ。
彼の頭にあったのは、ゴドセヴィーナ家の血をどうやって王家に入れるかという、ただ、そのことだけだった。それが、十年近く経ってようやく私に分かったことだった。
謀略というにはあまりにも生々しすぎる企みだ。彼はそのために、ゴドセヴィーナ家の血を濃くしようとさえ試みたのだ。なんて恐ろしい人なのだろう! その毒牙にかかったのが、愚か者の私だ。
若かった私は、恋に幻想を抱いていた。
当然というべきではないのか? 十代の、食べるものにも着るものにも恵まれた娘が、そして少しばかり自分の美貌にも自信があった娘が、自分に相応しい相手を見つけようとすることは……。
しかし私はあまりにも世間を知らなかった。
私の世界はゴドセヴィーナ伯爵家の中だけにあった。そこにいる年頃の男といえば、フランツしかいなかったのだ。そして彼には野望があった。一族の血……いや、“自分の血”を王家に注ぎ込みたいという下卑た野望だ。彼は“妹思いの兄”という立場を利用して、甘い言葉と態度でたやすく私を籠絡した。今思えば、何もかも消し去りたいほどに腹立たしくて、思い出すたびに爪を噛みたくなる。私は恋をしていると思っていたけれど、それは哀れな誤解でしかなかったのだ……。
──自分を憐憫するのはよそう。そんなものにはもう飽き飽きなのだ。
私はもう何年も前に、自分の過ちに気づいていた。だから伯爵家を出たのだ。信頼できる、ただひとりの使用人を伴につけて王都へ下り、そして聖ドロテア女子修道院の門をたたいた。
そして私は、同じ名前を持ちながら、まるで別人の“カタリナ”になった。
高慢ちきで、気まぐれなお嬢さま……。
そうして振る舞っているときが一番気楽だった。自分が本来、ひどく陰気な人間であることを隠して、私は浮かれ騒ぐ蝶のように過ごした。
仲の良い修道女たちと結託して院長を追い出そうと試みたり、自分たちに従わない修道女に些細な嫌がらせをしたり。
褒められたことではなかったと分かっている。
それでも、私はそんなふうにしか振る舞えなかった。
私の心にはいつもあの棘があった。『神に背いている』──。ここでは誰も知らないはずなのに、そのことを思いだすたび、本当はみんなそのことを知っていて、私をかげで嘲笑っているのではないかとさえ疑った。
祈りの時間が来るたび、頭がどうにかなりそうだった。
自分には悪魔がとりついていて、その悪魔が私を苦しめているのではないかと思ったりもした。仲の良い修道女たちにそのことを──兄とのことは隠して悪魔のことだけを──打ち明けると、彼女たちはこう言ってくれた。
『それは、シスター・カタリナ、あなたが聖なる人だから、そんな苦しみにあうのでは?』。
そして、ほとんどふざけ半分だったけれど、仲間うちで悪魔祓いをしようということになった。あの晩は本当に傑作だった。最初は真剣だった私たちも、途中からおかしくてしょうがなくなり、みんなでゲラゲラと笑い転げた。シスター・エミリアの神父役ときたら、本当ひどかった。あんなにふざけて、彼女こそ神さまのバチがあたるのではないかと皆で言い合ったほどだ。
──当然というべきか、悪魔はいなくならなかった。
あの棘も。
何も悩みがなさそうな顔でいつも無邪気にふるまっているほかの修道女が、羨ましかった。
私も、あんなふうに笑えたら。
けれど、それは出来ないのだ。
だから私は、彼女に嫌がらせをした。足を引っ掛けて転ばせたり、みんなの前で恥をかかせたり。それでも、彼女は修道院を出て行ったりしなかった。同じようなことで何人も辞めていったのに、彼女は図太くそこに残り続けた。
そして翌日には、悪いことは何もなかったという顔で、私に笑いかけるのだ。
あれほどイライラしたことはなかった。
私の目の前から消えてくれないかしら、後生だから、と何度思ったか知れない。
本人にも言ったことがある気がする。どこで言ったかは忘れてしまったけれど。
けれどあれから半年が経ち、もうあの修道院にも戻ることができなくなったとき、不思議と私が思い出すのは、いつも一緒にいて馬鹿騒ぎをしていた修道女たちのことではなく、あの、無邪気で屈託のない笑い方をする、どうしようもなくグズな、年下の修道女の顔なのだった。


「改めて……お久しぶりですね。カタリナ嬢」
私を向かいの椅子に座らせて、自分も座りながら、その金髪の男は言った。
以前は髪が長かったのに、いまはそれをばっさりとざんぎりに切っている。首の後ろのところで髪のラインがまっすぐになり、それは顎のほうに向うにつれ、少しだけ長さを増しているように見えた。
見慣れない髪型だけれど、悪くない、と私は思った。
「髪をお切りになられたのね」
私が眉をあげて言うと、男はさほど感情もこめたようではなく、淡々と言う。
「牛小屋に入り浸っているうちに、においがつきましてね。我慢がならなくなったのですよ」
男の名前はレヴィンという。レヴィン=アーミス。
傷ひとつないきれいな顔をしているが、あまり女に好かれそうな感じではない。何かしら神経質な雰囲気を彼は発していて、むしろ『自分に近寄るな』と言っているように見える。
彼はこの王城では重要な人物だ。国王の執務補佐官をしていて、国王の執務室に入り浸る権利を持っている。だから今も、私は王城の、国王執務室の中にいるのだ。
「あなたが牛小屋に?」
私の目の前に、あらかじめ用意されていたらしい茶器が置かれる。
レヴィンとは低いテーブルを挟んで向かい合う形だ。すぐ近くにある立派な机は、国王の執務机かもしれない。そう思うと、何か少し落ち着かないような気持ちになる。
「いろいろと事情がありまして」
レヴィンはひどくあっさりとした説明をした。それ以上言う気もないようだ。
「国王陛下は、今日はお留守ですの? 戻っていらっしゃったら、私のような者がここにいるのをご不快に思われるのではないかしら?」
「陛下はご病気ですので、こちらにはおいでになられません」
レヴィンの言葉に、私は王都で流れていた噂を思い出す。
国王は重病で、余命いくばくもない、という噂だ。
まだ若いはずだけれど、国王であるヴィクター=ウル=ファルス=シヴェリウスという人は、それなりにうまくこの国を治めているという話だ。前の国王のときには地方領主たちに大きな裁量があったけれど、今はずいぶんと制限されているという。税なども、何重にもなっていた不当なものは全て禁じられたという話だ。領地にいる父や、領地と王都を往復している兄などにとっては、目の上のたんこぶどころか、その存在じたいが腹立たしくてならないような人物だろう。
兄が内心では国王を嫌っていたのも、分からないことではない。
たぶん、国中の貴族たちが同じような心境に違いない。
──もう、私には伯爵家のことは関係ないけれど。
それに、その伯爵家も、もう存在しないのだし。
「ただの噂だと思ってましたけれど、本当でしたのね」
「ええ、まあ……」
レヴィンの言葉は歯切れが悪い。
私のために自らの手で茶を淹れながら、少しばかりしぶい顔になっている。
「噂が流れるようになってから半年も経ちますのに、長患いですわね。ご容体はいかが?」
「かんばしくありませんね」
レヴィンは表面上は淡々として言いながらも、苦虫をかみつぶしたような顔だ。
彼にとっては国王は大切な主君だろう。その主君が死にかけているというのに、彼の顔は、『腹立たしい』と言っているように見える。私は黙って眉を上げた。何か裏があると思ってのことだ。
「それは、つまり……」
「カタリナ嬢。今日は、そのような話であなたを呼んだのではないのです」
レヴィンは私のほうへ茶器を押し出しながら、嫌そうな顔で言った。
このきれいな顔の男は、自分の感情が顔にそのまま出る性質の持ち主のようだ。私は黙って茶器を手に取り、その完璧なまでに美しい器にそっと唇をつけた。花に似ているけれど、何かすっと胸が軽くなるようなすがすがしい香りがした。
「おいしいお茶ですこと」
思わず私は言った。本音だ。
薔薇の香りがするような甘ったるいものでなくて良かったと思いながら。
それは私にあの棘を思い出させる。
「東方のものです。クナトリアが輸入しているものを買い付けて、ここへ」
「この器も? 美しい彩色がしてありますわ」
「そうです。……そんなことよりも、本題へ入ってよろしいですか?」
レヴィンは自分のペースを崩されて、多少いらだっている様子だ。
私はすました顔でうなずいた。
「ええ、どうぞ? 聞いていますわ」
「……今日おいでいただいたのは、ゴドセヴィーナ伯爵家に関することをあなたにお伝えするためです」
改まったようにレヴィンが切り出す。彼は椅子の後ろにあらかじめ置いてあった書類束をまとめて取り出し、手元に置いた。それを見ながら喋るつもりのようだ。
「本来ならば、これはゴドセヴィーナ伯爵家当主であるあなたのお父上に告げるべきことです。しかし、伯爵はにわかの病であられるご様子。伯爵子息、あなたの兄上のフランツ殿も、“あの一件”以来ようとして行方が知れない。ですから、今日はあなたを伯爵家の当主代理とみなしてお話しいたします」
「ええ」
私は姿勢を正した。貴族の娘らしく。
“あの一件”──それはつまり、私の父と兄が、王家に何も言わずに銀を採掘し、その銀を敵国であるワシュトリア帝国に横流ししていたという件のことを言っている。ゴドセヴィーナ家は代々そうして帝国と縁を結んできた。私の体の中にも、今の皇帝一族と同じ血が流れている。何代前かの当主が、帝国皇帝の娘を妻に迎えたからだ。
つまり、この国に対する何重もの裏切りだ。
貴族として許されることではない。覚悟はできている。
「“ウルヴァキア王国の貴族の一員であるにも関わらず、国の富を長年不当に独占しつづけ、あまつさえそれを敵国に横流ししていたゴドセヴィーナ伯爵家は、貴族たる資格なし。よって、その伯爵位を王家に返還させるものとする。伯爵家所領は召し上げ、次の領主が決定されるまでは王家の管理下に置かれるものとする”。……以上です」
レヴィンは柔らかそうな上等の羊皮紙から顔を上げた。
私は彼をじっと見た。
少しだけ意外な点があった。
「それは、国王陛下のご裁断ですの?」
「……いいえ。陛下はご病床にあられますので、執務はおとりになっておられません。これは貴族会議で決定されたことです」
貴族会議。つまり、王都の上流貴族たちの判断ということだ。
国王といえどもにわかには覆すことのできない決定だ。それに、国王も、この結果に異議は唱えないだろう。もし病気でなかったとしても。
「父と兄はどうなるのかしら?」
私は静かに訊ねた。
「国外追放処分ですが、あなたのお父上はご病気であられるとのことですので、快癒されるまで猶予されます。兄上のほうは即時追放されるでしょうが、行方が見つかるかどうかは」
レヴィンは淡々と言った。
私は頷いた。
そういうことなら、父は今後もずっと病人として過ごすだろう。どちらにしろ、もう高齢で、ときどき的の外れたことを言うようになっている。残された時間はそれほど多くはないだろう。
その時間を国外追放にならずに自分の家で過ごせるなら、父にとっては朗報のはずだ。
「病の父への寛大なご処分、娘として心よりの感謝をいたします。……それでけっこうですわ、レヴィン=アーミス執務補佐官。このような騒ぎになりましたからには、伯爵家は取り潰しになるに違いないと、ここへ呼ばれたときから心の中で覚悟はしておりましたの」
私が落ち着いているのが意外だったのか、レヴィンはしばらく何も言わなかった。
それから彼は、小さく頷いた。元老会議の決議が書き記されていたのであろう羊皮紙を再び椅子の後ろに置き、膝の上に両手を置いて、手のひらを組み合わせて私を見た。そうすると彼はひどく目つきの鋭い、油断のならない男に見えた。
「ここには書き記されていないのですが、あなたの処分も決定しています」
「私の処分?」
「ええ。……『聖イローナ女子修道院に入り、世を騒がせることなく余生を過ごすこと』」
聖イローナ女子修道院はゴドセヴィーナ伯爵家の所有物だ。そこの院長は父の義理の妹で、私には義理の叔母にあたる人である。あまり会ったことはないし、話を聞くかぎりでは気が合うとも思えなかったから、聖イローナへ行く話があったときにはそれは断った。
「死ぬまで修道院にいろと仰るのね」
私は彼を見つめて言った。
彼も私を見つめていた。目をそらすことなく。そして、はっきりと答えた。
「ええ、そうです、カタリナ嬢。あなたには申し訳ないが、それがあなたへの“処分”です」
言いにくいことをはっきりと言う。
けれど、その彼の目には、慈悲にも見える奇妙な同情の色があった。
「銀の横流しにあなたが直接かかわったわけではないのに、このような結果になったのは私としても残念ですが。……なにぶん、それが貴族会議の決定ですので」
「聖ドロテア女子修道院では、駄目ですの?」
私は少し首をかしげて訊ねた。
レヴィンはしばらく考えていたが、やがて、肩をすくめた。
「別に、構わないと思いますが? ……私個人の意見としては」
「あそこなら以前の知り合いがいますし、気が楽かも……」
私はそう言いかけたが、しばらくして考え直した。眉をひそめる。
「……やはり、聖イローナにしますわ」
聖ドロテアはたしかに知った場所だけれど、今さら戻るのも、やはり気が引けた。
「それでよろしいのですか?」
「……ええ」
「他の女子修道院でも構いませんよ。聖イローナは、もともとゴドセヴィーナ伯爵家のもので、現院長もあなたとは親戚だということで、あなたにとって過ごしやすい場所として選ばれただけでしょうからね。他のところがよければ、どこでも」
「聖イローナでいいですわ」
「では、そのように取り計らいましょう」
レヴィンは頷いた。
「すぐというわけにもいきませんから、その件についてはまた日を改めて……」
「ええ。逃げはしませんから」
私の言葉に、彼は何も言わなかった。
立ち上がる。
「カタリナ嬢、昼食はまだ?」
「ええ」
「では、ご一緒にいかがです?」
「……あなたと?」
私は思わず訊いてしまった。それから、失礼だったかもしれないと思い口に手を当てる。
「あ……別に、嫌だと言っているわけではないのですけれど」
「たまには美人と一緒に食卓についてみたいと思いまして。いつも一人ですから」
レヴィンはそう言い、私に立つように目で促した。
「恋人はいらっしゃらないの?」
私は優雅に立ち上がりながら言った。たとえ伯爵家が取り潰しにされたとしても、伯爵令嬢カタリナまで一緒に死ぬわけではない。私はもう貴族ではないようだけれど、それでも、貴族として生まれ育った誇りだけは、失おうと思っても失えるものではないのだ。
「仕事が恋人ですよ。陛下がここへおいでになられないので、書類の山が増える一方で」
ふてくされたようにレヴィンが言う。その言葉がおかしくて私は思わず唇を笑ませた。
「そんなに国王陛下に信頼されているなんて、羨ましいお立場だこと」
「信頼ではなくて、丸投げされているんですよ、カタリナ嬢。丸投げ!」
レヴィンは不機嫌そうに言いながら執務室の扉を開ける。
「このままここへ戻ってこられないのではないかと思うほどです」
「まあ、そんな不吉な。国王陛下がお亡くなりになるだなんて」
「……そうであれば、まだあきらめもつくというものですが。まだ生きておられるのですよ、あの方は。だから私も腹立たしいのです」
このときは、彼が何を言っているのかさっぱり分からなかったから、私は曖昧に微笑むにとどめた。──ずっと後になって知ったところによれば、このとき国王は病気どころか、元気でぴんぴんしていて、好きな娘と過ごすために城を抜け出していたということだが、このときはそんなことは想像もしていなかった。
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2012 / 10 / 05. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 2

このあとの食事会は予想を超えたものになってしまった。
よりにもよって、レヴィンが向かったのが、公爵令嬢クリステラのところだったのだ。
クリステラはエトヴィシュ公爵家の娘で、血筋からいえば、どこの国の王女になってもおかしくないような淑女である。彼女はエトヴィシュ公爵家が所有していた聖ドロテア女子修道院に身を寄せていたから、同じくそこにいた私とも、一時期は同じ敷地内で寝暮らしていたことになる。
といっても彼女は特別扱いで、食事も、祈りの時間も、寝る棟も他の人たちとは違っていたから、ほとんど顔を合わせる機会はなかったのだが。
久しぶりに会ってみると、本当に輝くばかりに美しく、女の私から見ても少しばかり嫉妬するような美貌の持ち主だった。彼女の前に出ると、自分の金髪がいかにもみすぼらしく見えるのだ。彼女の髪は黒々とした美しい髪で、わずかにゆるやかに波打っている。修道院にいたころよりももちろんずっと伸びていて、それが彼女の卵形の白い顔を優雅にふちどっていた。
「まあ……意外なお客さまだわ! シスター・カタリナがうちへ!」
クリステラは卒倒しそうなほどの声で叫んだ。
迷惑がっているに決まっていると思って黙っていたが、どうやらそうではないらしい。彼女は、信じられないことに、嬉しくて興奮しているのだった。
「どうしてもっと先に言ってくださらなかったの? レヴィンさま! ……ああ、お待ちになって。食事をひとりぶん追加するように伝えてまいりますから。シスター・カタリナ、どうぞ、こちらに座っておくつろぎになっていらして」
クリステラはそう言うと、品の良い着物の裾を持ち上げてその場から去っていった。
さすがに名のある公爵邸だ。内装は素晴らしいもので、ただ息をのむばかり。ここに比べれば王城の、国王の執務室のほうが簡素に見えるほどだ。──まあ、あちらの重厚そうな雰囲気は嫌いではなかったけれど。
「ここへ来るなら来ると、言ってくださったらよかったのに」
私はレヴィンに文句を言った。
「言っていたら、ここへ来ましたか?」
彼は私の文句をまともに取り合わない。
まるで自分の家のように慣れた様子で居間に入っていき、応接用の椅子に腰を下ろした。私はしぶしぶそのあとに続いた。見目麗しい、若い使用人が数人、あわただしく菓子やら茶やらを盆に載せて運んでくる。
「陛下と彼女の婚約が流れてしまって、残念ね」
使用人たちが下がったあと、私は座りながら小声で世辞を言った。
「陛下がご病気でさえなければ」
レヴィンはムッとしたような顔で答える。
「いまごろ、盛大な結婚式が行われていたはずですがね。王都の大教会で」
「シスター・フィアはどうしているの?」
私は手持無沙汰に周囲を見回しながら、また訊いた。
このことを何度彼に訊ねても、いつも曖昧にごまかされるばかりだったが、なんとなく諦めきれなかった。シスター・フィアというのは、私が聖ドロテアでたびたびいじめていた新入りの修道女だ。無邪気で屈託のない笑い方をする、図太い、年下の修道女の名。
「村に引っ込んでますよ。牛が歩き回っているような村にね」
レヴィンは椅子の背にもたれて足を組みながら、渋い顔で言う。
この男は、無表情であるときもたまにあるが、たいていは考えていることが素直に顔に出るので、私には話しやすかった。それに、聞けばなんでも答えてくれる。案外、話し好きなのかもしれないと思った。
「あら、どこの村?」
「田舎の村ですよ。どこにでもある」
「詳しく教えてはくださらないの? ……私、最近思うのよ。たまにあの人と会って、お茶をするのも一興ではないかしら、って」
「興ざめするだけですからやめたほうがよろしい。茶の味も分からないし、器も壊すし。……だいたい、行っても邪魔者扱いされるだけですよ。いまは村の暮らしを心から満喫しているようですから」
「どなたかとご一緒に?」
「そのようです」
「どこのどなたかしら。本当に、すごく興味があるわ。あのシスター・フィアと一緒に暮らせる男なんて」
私は真剣に呟いた。
レヴィンは私の顔をちらりと見て、それから、抑えきれないようにため息をついた。
「そうですね……。変わり者の男なんだと思いますよ、私も。あのシスター・フィアと結婚しようと思うなんて、私にとっては『牛と結婚する』というくらい驚天動地のことですからね」
「相変わらず口の悪いひとね」
私は少しあきれて言った。
「いくらシスター・フィアだって、どなたかに思いを寄せられることはあるわよ。彼女、頭は悪いけど根は素直なんだし」
よりにもよって、病気であるはずの国王が、その“思いを寄せた相手”なのだとまでは、私はこのときは思い至らなかった。まさかあのフィアと一緒にいたいがために、国王の立場まで投げ捨てようとするかのような暴挙を、若くて有能だという国王ヴィクターがするはずがない、と思っていたからだ。
「聖ドロテアでは仲が良かったのですか? シスター・フィアと?」
レヴィンがこちらに鋭い視線を投げてくる。私は首を振った。
「いいえ、それほど。他の修道女たちと変わらなかった。……最初は仲が悪かった、と言ったほうがいいのかもしれないわね。私、彼女のことがあまり好きではなかったの。見ているとイライラするんですもの。でも……」
私は一度言葉を切り、外に視線をやった。
居間の壁の一部を切り取った、大きな木製の扉は開け放たれている。燦々と昼の光が差し込んできていて、その向こうに緑の美しい庭が見える。咲き乱れる花々はどれも丹精に手入れされたものだとひとめで分かった。クリステラもこんなふうに育てられてきたのだろうと思えた。
「不思議と、なつかしくなるの。時間が経てば経つほど……。どうしてか、分からないけど」
レヴィンは黙っていた。何を考えているのかは、その沈黙からは分からない。
「彼女に会いたいわ。会って、他愛もないことを話したい」
「……白パンの話しかしませんよ」
「それでもいいわ」
私は笑った。たしかに聖ドロテアにいたときも、目を輝かせて白パンの話をしていたっけ。
「きらきらした目で焼きたてのパンの話をするような人と話すのも、そう悪くはないから」
そう言ったとき、自分で、私はもうずいぶんと長く食事の味を忘れていたと気づいた。
父や兄が銀の横流しに関わっていたことが暴露され、ゴドセヴィーナ家の醜聞が王都中を駆け巡ったのは、いまから五か月ほど前のことだ。そのとき私は、伯爵家が沈没していくことを恐れていたのではなかった。もう自らの足で歩いてそこを出ていた私にとって、伯爵家の浮沈は人生の重大事ではなかったのだ。
私がおそれたのは、自分の醜聞が明らかになることだけだった。
ゴドセヴィーナ伯爵令嬢カタリナは、実の兄とみだらな関係を持った挙句に、子供まで産んだ。そしてその子供を見捨てて、修道院に入った。
そのことが明らかになることを死ぬほど恐れていた。
だから、誰の目にもつかないところに隠れていようと思った。
私は少し前まで、王都の小さな宿に逗留していた。宿泊客としてではない。そこで働いていたのだ。物置よりも狭い屋根裏部屋を与えられ、朝早くから夜遅くまで働きに働かされた。最初は宿の主を恨んだけれど、仕事に慣れてくると、その苦痛も少しずつ和らいでいった。
空き室の床を拭いたり、乱れたベッドを整えたり、食事を運んだりすることに私は次第に慣れていった。そうしているあいだは余計なことを忘れることができたからだ。
『おい、カタリナ! 花瓶の水を変えてないぞ! さぼっていないでちゃんと仕事をしろ!』
『……はい、だんなさま』。
以前なら考えられなかったようなやりとりを、もう何度繰り返したか分からない。
でも、自分はここで生きていくしかないのだと言い聞かせた。
──そこへ、この男が突然あらわれたときの驚きは忘れない。
彼はどういう手段を使ってか知らないけれど私を見つけ出し、そして、城へ来るように言った。私が王城の国王執務室にいたのは、そういう事情からだったのだ。──そして、仕事はその前日に辞めた。
「……逃げ隠れするのには疲れたの」
私は目を伏せて、ひとりごとのように呟いた。レヴィンは何も言わなかった。
私からは背後になるところにある、居間の入口には扉がなく、アーチ状の入口があるだけだ。そこから玄関ホールが見通せるようになっている。そこにふと人の気配がした気がしたが、私は振り返らなかった。
「ゴドセヴィーナ家の伯爵令嬢として育ってきて、それ以外の人生は知らなかった。でも、いざ父や兄の後ろ盾がなくなったとき、自分は何も出来ないのだと思い知らされたわ。……私、自分は強いつもりでいた。強くて、賢くて、一人でもじゅうぶん生きていける人間だって。でも、それは思い上がりだと気づいたの」
私は瞼を上げてレヴィンを見た。
「虚勢を張っていただけだったわ。それが弱くて見苦しいことだって、今の今まで、私には分からなかった。そのことに気づいたとき、シスター・フィアに会いたい、と思ったの。あの子って……すごくきれいな目をしているじゃない?」
私はちょっと微笑んだ。レヴィンは何もいわずに黙っている。頷きもしなかった。
「幸せだから、目がきれいなんじゃないのよ。あの子、世の中の汚い所を見たあとでも、あんなきれいな目をしていられるの。……あの子をいじめたのが私だから、それが分かるのよ。あのきらきらした、子供みたいに澄んだ目が嫌いだった……でも、今はそのことに本当に感謝してるわ。私がしたことで、あの子が目を曇らせたりしなくて本当に良かったって……」
そんなことになっていたら、私はますます暗い淵に落ちていくことになっただろう。
「……シスター・カタリナ」
レヴィンはふいに、私の名を呼んだ。椅子にもたれたまま。
「なんですの? 執務補佐官」
「聖イローナ女子修道院に行くのを渋っておられましたね」
「……その話? もう結論は出たはずだけれど」
「別の働き口を紹介することもできますよ。安宿で掃除婦として働いていたあなたなら、出来るでしょう」
レヴィンの言い方は私の誇りをひどく傷つけるものだった。しかしそれは事実でもある。
「仕事はつらいかもしれないが、修道院に事実上『幽閉』されるよりは、自由な生活ができるのではないかと私は思いますが」
「何? いったい何の仕事をさせようというの?」
警戒するように言った私にレヴィンが告げたのは、意外なことだった。
「王城で、次期王妃の専属の侍女が必要なのです。なかなか人選が進まなくてね……」
「王妃、ですって?」
「あなたなら、家柄からいっても、人柄からいっても、それに相応しいのではないかと」
「人柄? ……私の人柄はこんなよ。あなたももうご存知でしょう? 口は悪いし、態度もあまりよくないわ。ときどき反抗的な気分になるし、思ったことをすぐに言ってしまうのだもの。そんな人間に、次の王妃さまの侍女なんかが務まるはずないわ」
「次期王妃になる人間の名前をお教えしましょうか?」
レヴィンは背中をおこし、真面目な顔つきで私を見た。
私はふいに胸騒ぎがして、眉をひそめた。自分にとってよくない運命が近づいている気がしたのだ。私は内心の動揺を隠すように、目の前の茶器に手を伸ばし、それを急いで口元に運んだ。
「い……いいえ、けっこうよ。クリステラさんであれ、他の貴族令嬢の誰であれ……私は、そういう人たちの使用人になるつもりはないわ。ふさわしいと言われても迷惑なだけ」
「フィア=リンネルと一緒に暮らしている男の名は、ヴィクターというのですよ」
レヴィンは、こんなときだけ感情の読めない無表情になって私に告げた。
私は乾いたのどを潤そうとして飲みかけていた茶を、盛大に吐き戻してしまいそうになった。
──名誉のために言っておくけれど、私はそれを、ひどい音を立てながらなんとか飲み下した。


クリステラが戻ってきたのは、食事の支度がすっかりととのい、皆が食堂に移動したあとのことだった。
彼女はなぜか髪型を変えていた。最初は髪をおろしていたが、次はそれを三つ編みに編んで優雅に頭の上に留めていた。
「気分を変えたくなったものだから」
恥ずかしげに微笑んでみせるクリステラは、実は、もっと早くに居間に戻ってこようとしたのではないかと私は思った。しかし私とレヴィンが深刻そうな話をしているので、たぶん遠慮したのだ。
貴族令嬢にふさわしい気づかい。──どういうわけか、私にはそれはない。
「素敵な髪型ね」
私はそっけなく言い、席に着いた。本心から素敵だとは思ったが褒めるのはしゃくだった。
食事は実に豪勢なものだった。ウナギのパイやヒバリのローストが美しく盛り付けされて並び、美しい銀杯には山盛りのフルーツが置かれている。チーズのタルトはほっぺたが落ちそうな美味だったし、鶏肉のブラマンジェは今まで食べたことのない味だった。
「これはどうやって作るの?」
思わず私が訊いたほどだ。──といっても自分では作れないのだけれど。
「さあ……私には分からないけれど。……料理長を呼んで説明させましょうか?」
クリステラが首をかしげるので、私はあわてて首を振った。そこまでしなくてもいい。
「けっこうよ。珍しいと思って、ちょっと気になっただけだから」
「鶏肉をすってペーストにしたものに、アーモンドミルクと砂糖を加えるんですよ。それに香ばしく揚げたナッツ類を加えれば、このように見栄えよく仕上がります」
レヴィンはすまして言った。
「お詳しいのね」
クリステラのほうが目を丸くしてレヴィンを見る。
「料理をされるの? 殿方なのに?」
「一人暮らしですから」
「だからって、こんな手の込んだものを作る男の人はいないわ。……事務役人のような仕事などお辞めになって、城の料理長になられたら?」
私は冷やかし半分でレヴィンに言った。
「料理長より、私のほうがうまく作れるのは確かですがね」
レヴィンはふっと笑った。ひどく満足そうな笑みである。
おかしな男、と私は内心で思った。何度か顔を合わせる機会があって、分かりやすい人だとは思ったけれど、やっぱりよく分からないところがある。つかみにくい、と言ったらいいのだろうか?
「でも、このウナギのパイは見事な出来ですね。パイにこれほど美しい飾りをつけられる料理人はそういません」
レヴィンは本心なのかどうか、公爵家の料理長を褒めてみせる。
クリステラは微笑んだ。
「そうね。父が気に入っている料理人だから……。もともとは南のほうにあるアゴランという国の人で、ありとあらゆる種類のスパイスの名前と効果を知っているそうよ。何百種類もあるのに、すごいわよね」
「アゴラン?」
聞いたことのない国の名前に私は眉をひそめた。
「塩湖の下の国ですよ。あのあたりは香辛料の交易の聖地ですからね」
「そう……。外の国のことにはあまり詳しくなくて」
私は自分の無知が急に恥ずかしくなりながら言った。私に分かる国といえば、北のワシュトリア帝国くらいだ。一年中氷に閉ざされている、冬の帝国。──私の体の中にも流れている皇帝家の血。でも、それを意識したことはほとんどない。
「北のほうでお生まれなんですものね、シスター・カタリナは。南の国の名前をご存じなくても当然だわ」
クリステラが食卓の主らしく私を弁護してくれた。ありがたいような、かえって恥なような。
そんな具合に楽しく──まあ、楽しかったと言っていいと思う──食事はすんだ。
久しぶりにおいしいものをお腹いっぱいに食べた私は、もうほとんど動きたくない気分になって居間の椅子に座っていた。甘い焼き菓子などが目の前にあるが、さすがに手を伸ばす気になれない。
宿で働いていたとき、私は自分がひどく貧しい食事をしていたのを今さらのように思った。
あれはあれで自分には必要な経験だったと思うけど、またあそこで働きたいとは思わない。レヴィンの姿を見たとき、自然と辞める決心がついた。
レヴィンが、ゴドセヴィーナ伯爵家の存続について私に伝えに来たのは分かっていたし、その伯爵家の一員として、私も何かの罪に問われるのだろうと思っていた。戦争もするような敵国に銀を売り渡すなんて、どう考えても許されざることだ。
でも、以前はそのことをとがめようなんて考えたこともなかった。
ゴドセヴィーナ家の一員として、秘密は守らねばならないと思い込んでいた。
「午後はどうなさるご予定かしら? もし何もおありにならないなら、一緒に遠出いたしません? 誰かに馬車を出してもらって、王都の外に出て、どこか景色のいい川のほとりなんかを散策できたらとても楽しいと思うのだけど。……もちろん、レヴィンさまもご一緒に!」
クリステラは私たちにそう言ってきたが、承諾はできなかった。
「お誘いは嬉しいけれど、またにするわ。用事があるの」
次の機会などないと思いながら言う。それは私が、クリステラのような人と一緒にいる資格がないからそう言うのだ。もう、以前のように彼女のことを嫌っているわけではない。もともと嫌う理由だってなかったのだ。自分より身分が高くて特別扱いされているのが気に入らなくて、シスター・エミリアやシスター・ジュリアと一緒に愚痴を言っていただけで。
「まあ……。では、レヴィンさまも?」
「シスター・カタリナを送り届けなければなりませんので」
レヴィンは微笑んでクリステラに言う。
「またお誘いくださるなら、朝早くから用意して駆けつけますよ。クリステラ嬢」
「あら、それではお仕事の手を止めてしまうわ。……今日だって、お忙しいところをいらしていただいたのだとは思うけれど」
「あなたのためなら仕事など何日でも放棄しましょう。どうせ城の主も仕事を放りだしているのですから、構いませんよ」
レヴィンは本気のような口調で言う。クリステラは困ったようにうなずいた。
「そ、そうね。でも国王陛下は……その、ご病気……でいらっしゃるから……? でも、そう言ってくださってとてもうれしい気持ちよ。本当に、今度はぜひ一緒に遠出をいたしましょうね」
「ええ、ぜひ。それでは、失礼します」
レヴィンは一礼すると、私のほうへ腕を差し出した。
私は彼の手に自分の手を重ねた。ひとつもときめかなかった。
玄関前にある数段の階段をおりて、石畳の道の上に出る。そこから門まで美しい道ができている。両側には手入れされた庭木が配置されている。門には門番の姿。
「手を貸してくださってありがとう、執務補佐官」
「どういたしまして」
レヴィンは階段を下りるやいなや、私からそっけなく手を放した。
「私には見せない、極上の笑顔をしていたじゃない?」
私は少しばかり嫌味を言った。レヴィンは肩をすくめた。
「この国で最も高貴な女性を前にして、ふてくされた顔をするわけにいきませんから」
「ああいう人に王妃になってもらいたかったと、内心では思っているんじゃない?」
「もちろん、そうに決まっています。王都とその周辺の民、十万人にそう訊ねれば、九万九千九百九十九人がそう言うでしょう。私でなくとも」
「……残りのひとりは?」
「国王陛下しかいません」
レヴィンの答えはもっともなものだったので、私はちょっと笑ってしまった。


「……ところで、今日はなんの用事であそこへ行ったの?」
「その国王陛下からの書簡をクリステラ嬢に届けるためです。内密なものなので私が直接」
「婚約が流れたあとも、親交は続いているというわけなのね。彼女も寛大だこと」
「要するに、シスター・フィアからの招待状ですよ……。結婚式の。こんなものを使いにやらされるとは、私も舐められたものです」
「本当に結婚するの?」
私は疑心暗鬼で訊ねた。
「あの、シスター・フィアよ?」
「本当にするんですよ。私とて悪夢と思いたいが」
レヴィンは諦めきった顔で言った。彼は途中で馬車を拾い、王城まで行くように指示した。
「国王陛下ってどういう方なの? あのお美しいクリステラさんを袖にしてシスター・フィアを選ぶなんて、相当に特殊なこだわりがあるとしか思えないけれど?」
「どんな人か? ……答えにくいですね。私にはよく分からないところのある人ですよ」
それを聞いて、私は国王の人柄を理解するのをあきらめた。レヴィンですらよく分からないのに、その彼が分からないという国王のことが分かるわけがない。
「変わり者なのね。要するに」
「そうですね。……たしかにずいぶん変わってますよ。まるで王族らしくない」
「先王陛下より評判はよいようだけれど」
「そうした声もあるようですが。比べても仕方がありませんね。先王陛下は執務をほとんどとられませんでしたから」
レヴィンはそっけなく言った。
それから、ふいに気分を変えたらしい。
「すみませんが、城ではない場所へ向かっても構いませんか? 私のもうひとつの仕事場に行かなければならない用事を思い出したのですが」
「ええ……お好きなように」
私は自由な行動をさせてはもらっているが、実質上、王家の虜囚なのだと分かっている。ゴドセヴィーナ伯爵家はもう存在せず、私は犯罪者の一族の人間になってしまった。
「では、王都郊外へ」
レヴィンは馬車の御者に詳しい指示をする。聞いていると、ケルツェという村に向かうようだ。
知らない村だ。もともと、王都育ちでもない。王都周辺にはいくつも村が点在しているが、どこがなんという村なのかまるで分からない。
「もうひとつの仕事場が、その村におありになるの?」
「城で働いているのは表の顔で、裏の顔は、牛小屋の掃除係なのですよ」
レヴィンは少しばかりに疲れたように言うと、「少し眠らせてください。朝が早かったもので……」と言い、壁にもたれて眠ってしまった。
2012 / 10 / 06. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 3

馬車は波打つ丘の隙間を縫って、軽快に走った。
遠くの森は紅葉に色づいていた。緑の森もある。
じきに冬だ、と私は思った。それにしてはここ数日は気温が暖かく、冷え込みは感じない。まるで今年だけ、冬が遅く来るかのようだ。
誰かの実りの秋が長いのだろう、と私は心のなかで考えた。だからきっと、冬が遅い。
私も壁にもたれて瞼を閉じた。隣に座るレヴィンがもたれている壁とは反対の壁に。


どのくらい眠ったのか分からないが、気がつくと馬車は村に着いていた。
こじんまりとした村だ。調和がとれていて、落ち着いた雰囲気がある。
「住み心地のよさそうなところね」
私は馬車から降りながら言った。手を貸してくれたレヴィンは、それには顔をしかめた。
「そうですか? 私はご免ですが……。こんな牛くさいところ」
「たしかに、あなたには王都が似合うわね」
「“都”と名のつかない場所は、私の居場所ではありません」
レヴィンはわけのわからないことを言い、歩き出した。
私は物珍しさから、きょろきょろと村の中を見ながら歩いていた。しばらくするとそれにも飽きて、ただレヴィンのあとを歩くだけになる。村人たちはレヴィンの顔は見知っていると見え、軽く会釈をして挨拶をしてくる。私の顔を見るときだけは、彼らは珍しげな顔になった。
「あなたが仕事場にいるあいだ、私はどうすればいいのかしら?」
「牛小屋にお連れするわけにも参りませんので、別の場所をご案内しますよ」
レヴィンは振り返らずに言う。
しばらくすると、村の奥まったところにある家に着いた。村の入り口からなかばくらいまでに並んでいた家々とは、少し離れたところにある家だ。しつらえは他のものより少し立派だが、立派すぎるということはない。あくまでも村の景観になじんだうえで、造りのしっかりとした家だった。
「ここ?」
「ええ……」
「あなたの家かしら? 案外素朴なところに住んでいらっしゃるのね」
「私の家ではありませんよ」
レヴィンはそう言いながら扉を叩いた。
しばらくすると誰かが出てきた。私は扉が開いたところの後ろ側に立っていたので、誰が出てきたのかは、扉にさえぎられていて見えない。レヴィンはその正面にいるから見えているだろう。
「レヴィンさんじゃない。どうしたの? うちまで来て」
明るい声がした。その声に私はどきりとした。
「お腹でも空いたの? ……パンが余ってるけど、食べる?」
「けっこうですよ。どうせ焦げているんでしょう」
「いつも焦げてるわけじゃないわ……」
「ほとんど毎日焦げてると聞いてますよ、陛下から」
「そんなこと言ってるの? ……もう! 家の中のことは仕事場で喋らないでって言ったのに!」
それに対して、奥から誰かが何か言い返す声が聞こえた。内容はよく聞き取れないが、落ち着いた響きの男の声だ。
私の心臓は不吉に鳴りはじめた。目眩までしてくる。
「あ、あの……執務補佐官。私、帰るわ……」
「もう馬車を帰してしまいましたよ」
レヴィンは驚いたように言った。
「誰かいるの?」
驚いたような声がして、扉がさらに開かれた。私はそのかげにずっと隠れていたい気分だったが、そうするわけにもいかず、渋々姿を見せる。
扉の中に立っていたのは──他の誰でもない。フィアだった。
フィア=リンネル。聖ドロテアで一緒に過ごした修道女。私が食堂で足を引っ掛けて転ばせ、食器をひっくり返させたり、「礼儀がなってない」と呼び出してねちねちといじめていた、あのぐずな年下の修道女だ。
「シスター・カタリナ!!」
フィアは、クリステラ以上の驚きを見せて叫んだ。
それから、飛びついてきた。
私は後ろにひっくり返りそうになった。血の気が薄くなっていたからだ。
なんとかこらえたのは、開いた扉の取っ手にとっさにつかまったおかげだ。取っ手がとれなかったのは幸いというものだろう。この家は見た目通り、頑丈にできているらしい。
「どうしたの? こんなところに来て……あっ、と、とにかく、家に入って! お茶を出すから!」
フィアは私の腕をはがいじめにして家の中に入ろうとしたが、家の中が散らかっているのを見て、慌てたように私から離れた。
「あ、ちょ、ちょっと待って! いま片づける!」
入口から入ったところは、すぐ居間になっているようだ。庶民の家らしい作りである。
その奥が台所と食堂。台所のほうは意外にもきれいになっているが、居間の床には本が山と積まれており、それが崩れたようになって散乱していた。
「ヴィクターさん! それは全部二階に持って上がって!」
フィアは暖炉の前の木製の長椅子に寝そべっている男に向かって、大きな声をあげた。
「ここはお客さまをお迎えするところで、あなたの書斎じゃないんだから!」
「客なんて来ないだろ。普段……」
男は不満そうに言ったが、のろのろと体を起こして立ち上がった。男はさっきまで本を読んでいたらしい。そしてため息をつきながら本を拾い集め、山積みにしたそれを抱え上げる。
私の前を通るとき、彼は私とレヴィンにちらりと視線を投げ、
「ゆっくりしていってくれ」
と、言葉とは裏腹にたいして歓迎していないような顔で言い、階段を上って行った。
私はそのあいだじゅう硬直していた。
──え、今のが国王?
あまりにも現実感がなくて私はぼうっとしていた。
だって王冠もかぶってないし、毛皮のマントも羽織ってないし……。
服装は普通の村人と変わらないようなもので、足なんて裸足に、修道士みたいな藁の草履を履いているだけだったけど……。
あれが国王?
茫然としている私をよそに、フィアはこまねずみのように動き回って、急いで居間を片づけた。そして、椅子の背もたれのクッションをばんばんと叩いて直して、客は来たばかりだというのにもう赤い顔をして息を弾ませて、私に向かって「ど……どうぞ!」と言った。
「私は陛下とお話がありますので、奥に失礼します」
レヴィンはそう言って二階に上がっていった。
途中で後ろを振り返り、上からフィアを見下ろして、
「例のまずい茶ならいりませんから」
と無表情で言った。
「出さないわ。レヴィンさんは、何を出したって文句ばっかり言うんだもの!」
フィアはレヴィンに向かって果敢に言い返している。相変わらず図太い娘だ。
「あ……シスター・カタリナはお茶を飲むでしょ? 裏山に生えてた赤緑の草を煎じたのがあるの。すごく健康にいいんだって。村のおばあさんが教えてくれて、私がひとりで作ったのよ!」
フィアは私を座らせながら、嬉しそうに言う。
赤緑の草……。何それ……?
例のまずい茶とレヴィンが言ったのはそれではないかと内心怪しんだものの、気がつくと頷いていた。
「え、ええ……。いただこうかしら。少し喉が渇いたし」
正直なところこの展開に面食らいすぎていて、何か飲まないと落ち着かない感じだ。
それに、突然やってきた私をフィアが普通に歓迎してくれるのも、実は嬉しかった。
この娘は変わらない、と思う。
変わらなさすぎて、羨ましかった。
「毒のある草じゃないでしょうね?」
「違うわ! 毒吸い草っていうのよ。反対に、毒を吸いだしてくれるの」
「あいにくだけど、私サソリじゃないから、毒なんてないんだけど」
「あるじゃない、毒」
「……え?」
「口が悪いところとか……。……毒舌?」
「あなたもけっこう言うようになったわね……」
「それは冗談だけど、誰が飲んでも健康にいいって、そのおばあさんが言ってたから大丈夫よ」
「ほんとに大丈夫?」
フィアは私の言葉に頷き、台所のほうでお茶の支度を始めた。
そうしながら、私のほうを振り返って訊ねてきた。
「でも、今日はどうしてここに? レヴィンさんと一緒に来るなんて、本当にびっくりした」
「私の家がどうなったか知らないの?」
「……どうかしたの?」
フィアは怪訝な顔になる。
「……別に。たいしたことじゃないけど」
私は肩をすくめた。この娘は王都にいなかったから、ゴドセヴィーナ伯爵家の醜聞は知らないのだと思った。
「私、今度聖イローナに行くことになったの」
それだけ言う。
「聖ドロテアを出るの?」
フィアは驚いたようだ。
「あそこはもうずっと前に出ていたわ。……そうね、あなたがいなくなってしばらくしてから」
「そうだったの? 知らなかった……。どうして出たの?」
「兄が迎えに来て」
「そうなんだ。……でも、それじゃ、どうしてまた修道院に入るの?」
「私は修道女にしかなれないんだって思ったの。だからよ」
私の答えに、フィアは納得できなかったようだ。
かまどに火をたいて湯を沸かすと、台所のところにある椅子に軽く腰掛ける。
「そんなことないと思うけど……」
「この話はいいのよ。あなたに意見を仰いでるわけじゃないんだから。ただの報告よ」
私は首を振った。
「それより、新婚生活はいかが? 満喫してらっしゃるの?」
「まだ結婚式してないの」
フィアは恥ずかしそうに打ち明けた。私は眉をひそめた。
「一緒に住んでるじゃないの。……さっきの人、と」
「春になってからすることにしたの。そのほうが、お客さんたちも寒くならずにすむから」
「私も呼んでいただける?」
「もちろんよ、シスター・カタリナ! どこにいるか分からなかったから招待状を出せなかったの」
「……冗談よ。あなたの結婚式に出るほど暇じゃない」
私は苦笑した。フィアは落胆したような顔になった。
「そうなの? ほんとに、来てもらえたら嬉しいのに。聖ドロテアのみんなにも出したし」
「シスター・エミリアやシスター・ジュリアたちと顔を合わせたくないの」
「どうしてよ。あんなに仲が良かったじゃない」
「そうだけど。……でも、もういいわ。私は聖ドロテアとは関係ない人間になったから」
私はうつむいた。
しばらくすると湯が沸いて、フィアが茶の準備をしてこちらへ来た。斜め向かいに座る。
「聖イローナで何するの?」
「何って?」
私は怪訝な顔になった。茶を受け取りながら。
赤緑の葉と聞いたから毒々しいものを想像したが、思ったよりも香ばしい、さわやかなにおいがする。これなら飲めそうだ。
「聖ドロテアにいたとき、カタリナ、いつも自分がしたいことを見つけてたじゃない」
「そうだった? 覚えてないわ……」
「『真夜中のお茶会』を企画したり、『院長を追い出す会』を作ったり、『懲罰委員会』を立ち上げたり……」
悪いところを列挙されているようにしか思えない。
私は茶をすすりながらちょっと赤面した。
「やめてくださらない? シスター・フィア。私の過去のあやまちを蒸し返すのは……」
「え? ……そ、そう? あやまち? ……でも、いつも楽しそうだなって思ったけど」
「したいことなんて、ないわよ。……あっても、出来ないわ。聖イローナは、聖ドロテアみたいにおふざけを許してくれるところじゃないもの。あれは聖ドロテアの院長が甘い人だったからできただけ」
「ふうん……」
フィアは物足りなさそうに頷いた。
私も、そう言われると自分で考え込んでしまう。
たしかにいつも、やりたいことを探していた。それは私には現実逃避だった。けれど、それも自分には必要だったのかもしれない。今の私は、逃げ隠れしないと決めたかわりに、奇妙なプレッシャーのようなものをどこかで感じ続けている。
「何か、楽しいことがあれば、やりたいけど……。でも、修道女って、そういうものではないわよね?」
「そう言われたら、そうね……」
お互いに無言で茶をすする。妙な雰囲気になってしまった。
と思ったけれど、フィアの顔をちらりと見ると、自分のお手製の茶を飲んで満足そうな顔だ。
「それより、あなたの話を聞かせてちょうだいよ。……ねえ、あの人、どうなの?」
私はフィアに身を寄せて訊ねた。
「どうって?」
「優しいの? それとも、結婚したとたんに性格が変わったりとか?」
「そんなことないわ。前と変わらない。……ううん、前より、ちょっと優しくはなったけど。でも、それも時々よ!」
フィアは何か思い出したのか、急に憤慨したような顔になった。これは不満がある顔だ。
「足で私を蹴っ飛ばすし、『茶を持ってこい』とか命令するし、まるで王さまみたいに偉そうなの!」
まるで王さまって、あなた、あれは本当の王さまじゃないの……。
と私は心のなかでげんなりして思った。
「足で蹴ったりなさる……するの? それは、ひどいわね! ……どんなふうに蹴るわけ?」
「どんなふう? えっと……こ、こんなふうに」
フィアは自分の素足をひょいと片方上げると、おそるおそる、という感じで、何かを足の裏でぐいぐいと転がすようなしぐさをした。
「蹴るっていうより、ただ転がしてるだけじゃないのよ」
私はあきれて言った。
フィアは顔をしかめた。
「私が床で寝てると、そうやって蹴ろうとするの」
「床で寝るほうがおかしいんじゃない? 夜はベッドで寝るものでしょ? 人間は」
「昼よ。床の掃除とかしてたら、途中でウトウトしたりすることってあるでしょ?」
「ないわよ……」
「あるわよ!」
「ないってば」
「な、ない?」
「床を掃除してても、眠くなったなら、長椅子かベッドに行くのが普通だと思うわ」
「そんなことしてる暇がないくらい、すごく眠いの。瞼が開かなくなって……」
「要するに、床で寝るなって言ってるんじゃないの?」
「そう言われるけど、足で蹴ることないと思わない?」
「犬が床に寝てるときは、私だって足のつま先でつつくわよ」
「犬じゃないんだけど」
フィアは不服そうだ。
私は冷やかしたい気分になった。
「ね? 昼にそんなに眠いのって、やっぱり夜に寝てないから?」
フィアは何か言いかけたが、何も言葉にできないまま顔だけ赤くした。
「図星みたいね」
私は彼女の腕を肘でつついた。
「羨ましいわね。幸せそうで!」
「ち、違……そんなんじゃ……」
「違う? 何が違うのよ。言ってみなさいよ!」
「……時々、不安になるの。それで寝れなくなるの」
フィアは小さな声で打ち明けた。
「不安って、何が?」
案外深刻そうな話になってきたので私は眉をひそめた。
「あの……こんなこと言うと、おかしいかもしれないけど」
前置きして、フィアは私に向き直った。真面目な顔をしている。
「毎日、幸せすぎて、これがある日突然、急に消えてしまったらどうしようって思って、怖くなるの。それで……どきどきして、眠れなくなるの。カタリナは、そういうことある?」
「……ないわ」
私は茫然として言った。幸せすぎて眠れないなんて、そんな経験をしたことはない。
けれど、しばらく考えたあと、私は自分の考えを改めた。
「……あった気もする。でも、すごく昔のことだし」
「それって、どういうとき?」
「やっぱり、好きだと思っていた人と結ばれたときね。そのときは……有頂天で、こんなに幸せことはないって思った。でも……しばらくすると、自分が間違ってたと思うようになったわ」
「ほんとに?」
フィアはショックを受けたような顔になった。
「ほんとよ。いまでは、そのころのことを思い出すと吐きそうになるの」
私は率直に言った。
フィアは愕然となったようだ。
「き、聞かなきゃよかった……」
「……ごめんなさい。あなたにする話じゃなかったかも」
私も、さすがにフィアを気の毒に思った。自分の口の軽さはいけない。
好きな人と一緒に暮らしはじめたばかりのフィアは、いまが一番幸せなときなのだ。その幸せに水をさすなんて、無粋なことをしてしまった気がする。……こんな反省をするようになるなんて、私も大人になったってことかしら?
「それは、その……いろいろと、事情があったのよ。私は、その人と結ばれるべきじゃなかったの。だから、後悔したのよ。それが神さまに背くことだったから。でもあなたは、そうじゃないんだから。何も心配する必要ないわよ」
「神さまに背く?」
フィアは喘ぐように言った。
いったい何が気に障ったものか、かすかに青ざめてさえいる。
彼女はしばらく黙りこんでいた。私も、何かまずいことを言ったのかしらと思いながら、少しばかり意気消沈して黙っていた。
「……いつか、あの人と離れなきゃいけないときも来るのかもしれないって……」
フィアはぽつりと、けれど、意を決したような震え声で言った。
「心のどこかでは、覚悟してるの。でも、それは……神さまの罰なんかじゃない。ただの……運命よ。私は、そう思ってる……」
私は黙ってフィアを見た。
どう考えても、国王と結婚できるような身分の娘ではない。フィアが言うこともなんとなく分かる気はした。
それとは別に、彼女が何か重いものを背負っているのだというのも分かった。それが何なのか私には分からなかった。聖ドロテアにいたとき、フィアはそんなそぶりは見せなかったからだ。
「……好きなんでしょ?」
私は訊いた。
フィアは顔を上げた。それから、こくりと頷いた。
「じゃあ、離れないほうがいいわ。あなたに必要なのは、この人を失うかもしれないと思っておびえることじゃなくて、何があってもこの人と一緒にいようと覚悟を決めることでしょう」
「……そうね」
フィアはうなだれたようにして頷いた。
「分かるわ。カタリナのいうこと……」
「私には言う資格がないのだけれど」
私は茶をすすって、ぽつりと呟いた。
「あなたが羨ましいわ、シスター・フィア。他の人に何を言われようと、自分の決めた人と一緒にいるんだもの。私にはそんな強さはなかった……」
「何回も逃げたけど」
フィアは私を見た。
「でも、そのたびに追いかけられて、もう、この人から逃げられないって思ったの」
まじめな顔でそんな告白をする。
私は黙っていた。唖然としていたのだ。
「……そんなに思われてるの? あの人に?」
「思われてるっていうか、たぶん、何か心配されてるんだと思うけど。私……ぐずだし」
「それであの人に追いかけてもらえるなら、私だってぐずになりたいわ」
私はあきれて言った。
「でも、大変なのよ。いろいろ」
フィアは顔を赤くして言う。
「パンが焦げてるとか、料理がまずいとか言われるし。外に出ても、すぐに帰ってこいって言うし、時間をすぎると迎えに来るし……そのくせ、自分はなんにも言わずに、急に夜中に出かけたりするし」
「それは、あなたを起こしたくないからよ。それに、絶対戻る気があるから、何も言わないんだわ」
私は少しばかり感動さえして言った。この、子供っぽいシスター・フィアをそんなに真剣に愛せる男がこの世にいたなんて!
「とにかく、あなたが幸せだってことが分かって安心したわ。……安心っていうか、興ざめっていうか、どっちなのかちょっと私にも分からないけど。とにかく、良かったわ」
私は真面目な顔で言った。
フィアは渋い顔をしていたが、やがて吹き出すように笑い出した。
「あなたって相変わらずね、シスター・カタリナ!」
「口が悪いって言いたいんでしょう?」
「そうだけど。でも、言いたいことを自由に言えるあなたが羨ましいし、私はそういう人が好き。嘘をつかれるよりずっといいもの」
「そうかしら。……だって、そのせいであなたを傷つけたこともあるわ」
「そうだった? ……忘れちゃった。だって、他にもいろんなことがありすぎたんだもの」
フィアは屈託なく笑っていた。
私は目の前の娘をじっと見た。
どう考えても、王妃になれるような娘ではない。でも、そうなるのだろう。彼女はそういう運命に足を踏み入れてしまったのだから。どういうきっかけでかは、私には想像もつかないけれど。
「……それにしても驚いたわ。ご病気だと噂の……人が、こんなところで、あなたと一緒にいるなんてね」
私はしみじみと言った。
「わたしもそう思う」
フィアも頷いた。
「あの人が王さまだなんてこと、一緒にいるとすっかり忘れそうになるの」
「あなたって幸せ者だわ、シスター・フィア。本当に、特別な人生を生きてるわよ」
その意味がこの子に分かるのだろうかと思いながら私は強く言った。フィアはうん、と頷いていたが、いつもの頷き方とあまり変わらないものだったから、本当に分かっているのかしら、と私は内心怪しんだりした。
でも、私はこのとき知らなかったのだ。
ずっと後になって、“特別な運命を与えられた”フィアが、どんなに苦しい人生を歩むことになるのかを……。


再び馬車で、レヴィン=アーミスとともに王都に戻る。
彼と国王もずいぶんと話し込んでいた様子だ。二階からはずっと人の声が聞こえていたから。何を話しているかまでは分からなかったけれど。
「それで、いかがでしたか。カタリナ嬢?」
レヴィンが話しかけてくる。
「いかが、って?」
「決心はついたかとお訊きしているのです」
「え? 何の決心ですって?」
私は面食らって訊ねた。
レヴィンはあきれたように顔をしかめて私を見た。後ろの壁にもたれながら腕組みをする。
「次期王妃の侍女になるかどうか、という件ですよ。それでわざわざあなたをあそこへお連れしたのですが?」
「あ、ああ……」
私は思い出して頷いた。
「そうだったの。ただ、なりゆきで立ち寄っただけだと思っていたわ。ごめんなさい」
「こう言ってはなんですが、ゴドセヴィーナ伯爵家という後ろ盾を失ったあなたには、望みうるなかで最善の環境だと思いますよ。城の中に部屋を持てますし、王妃の侍女であれば、多少の贅沢も許されます。言ってみれば今までとそう変わりない生活ができるでしょう」
レヴィンは淡々と言っているが、私はその顔を意外な思いでじっと眺めた。
「あなたって……案外、彼女のことをいろいろと考えていらっしゃるのね。執務補佐官」
「私が?」
レヴィンは嫌そうに顔をしかめた。とんでもない、というような顔つきだ。
「私が気にしているのは陛下の評判です。自分の主君が人の笑いものになるのは耐えられない。あの娘は貴族社会にはなじめません。しきたりも礼儀も知らない。だからあなたのような人に近くにいてもらいたいと思っているだけです。あの娘のためではなく、主君のためです」
「たいそうな忠義者ですこと」
私は冷やかすように言った。レヴィンはむっとしたような顔になる。
「それで、結論は? 駄目なら駄目で、他の者を探しますが」
「……そうね。少し考えさせていただけない?」
私は慎重に言った。
「気持ちの整理をする時間が欲しいの」
確かにレヴィンの言うとおりだ。伯爵家の後ろ盾を失ったわたしが生きていくためには、なんらかの職が必要だ。でも、自分にはそれほど多くのことができるわけではない。安宿で働いたときに、それが嫌と言うほど分かった。
私は人にこき使われる立場に立つのは向いていない。
けれど、一日中化粧台の前に座っていて、侍女たちに囲まれておしゃべりをしていればお金が入ってくるというわけにもいかない。これからは自分で稼ぐ必要がある。
次期王妃の侍女という立場は、正直いってかなり魅力的なものだ。王妃の侍女なら、伯爵令嬢である私くらいが適当だろう。もと伯爵令嬢、だけれど。それに相手がフィアであるなら、こき使われる心配もないし、無理な命令をされることもないだろう。それに、貴族社会のしきたりや礼儀のことなら、私はあの子には教えてやれることがたくさんある。
「あまり長くは待てませんよ。あなたが断った場合、他に人選する時間も必要ですし」
「分かっているわ。……一週間でいい。一週間、時間をいただける?」
「では、そういうことに」
「……でも、ひとつの問題があるわ」
「なんです?」
「仕事を辞めてしまって、住むところがないの」
「……そうですね」
レヴィンはうなずいた。彼がやってきたから、私は仕事を辞めたのだ。私がそれを宿の店主に告げるところを彼も見ている。当然そうすべきだ、というような顔を、あのときしていた。
「城の空き室をお貸しします。食事はこちらで用意します。着るものは……先代王妃の衣装室から、衣装係に見繕わせたものをお出しするということで。ただし、お貸しするだけです。差し上げるわけではない。あなたは王妃ではありませんからね」
「どうせ、フィアが城に来たときには、すべて作り直すことになるでしょうけどね」
私は肩をすくめて言った。
「だって、あの子の体型に合うドレスなんて、城にはないでしょうから。それに、先代の王妃さまは身投げをして死なれたという話じゃない。そんな人の服を、自分の妻に着せたがるとも思えないわね。さきほどのお方が」
「その通りでしょうね」
レヴィンは苦い顔で言った。
「しかし、それとこれとは話が別。衣装は貸すだけです」
「分かってます。別に、あなたのはからいに文句を言ったわけではないのよ。ありがたくそうさせていただくわ」
この話はこれで円満に終わった。
2012 / 10 / 07. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 4

私はその数日後、聖イローナ女子修道院へ向かった。
聖イローナ女子修道院は、王都の大教会より北の地区に建っている。聖ドロテア女子修道院よりも古い修道院で、王都では最古とも聞く。
ゴドセヴィーナ伯爵家がその修道院を手に入れたのは、最近になってからのことだ。兄のフランツが慈善活動に熱心な人で、その一環で、経営に行き詰っていた修道院に再建のための資金を拠出し、伯爵家の所有としたのだ。
しかし、私は知っている。フランツはけして慈善家ではない。
彼が必要としたのは「慈善家だ」という評判だけなのだ。いつもそうだ。上っ面ばかり気にしている。そして腹の中では、おぞましいことを考えている。綺麗な顔をしてはいるけれど、あの人は──悪魔と同じものなのだ。
私は自分の中にもそれと同じ血が流れているのだと思うと、憂鬱な気持ちになっていた。聖ドロテアにいるときにいつも鬱々としていたのも、なかばそれが原因のようなものだ。
原因不明の頭痛。吐き気。生きることに対する嫌悪感……。
しかしそれは、フランツの屋敷を自分の足で出て行ったとき、不思議なほどきれいに消えた。私は自分が自由なのだ、としみじみと感じた。空の美しさに気づき、道端の花の美しさに気づいた。自分の足で一歩一歩、律動的に、石畳の道を踏んで歩くことの幸せに気づいた。
ああ、本当に自由だ。
私をあれほど苦しめた重い鎖が、いまはどこにもない。
そう噛みしめたとき、私は自分には何だって出来ると思った。安宿に飛び込んで「働かせてください」と言ったのも、そのせいだった。あのときの高揚感がなければ、死んだってそんなことはしなかったろうけれど。
でも、あれも悪くない選択だった。私には必要なことだったのだ。
私の中の薔薇の棘は、働くことの苦しみのなかで折れて、消えていった。棘が折れるときには苦しみをともなったけれど、すぎさってみれば、我慢できないほどの苦しみではなかったのだと思えた。
苦労することも、喜びだ。私にも、ようやくそのことが分かり始めている。
その苦労は誰のためにするものでもない。自分のためだ。自分が自由であるために、自分が誇りを持って支払う代償なのだ。
──私は聖イローナ女子修道院の門の前で、しばらく考え込んでいた。
レヴィンに約束した期日まで、あと三日。
ここの院長は、私の義理の叔母。父の弟の妻であった人だ。父の弟──私の叔父が亡くなって、未亡人となり、そのあとでこの修道院の院長になった。もともと修道女ではなかった人を突然院長にすえたのは、フランツのはからいだ。この修道院がゴドセヴィーナ伯爵家のものになったときのことである。
そのゴドセヴィーナ伯爵家はなくなった。フランツも行方不明だ。
あれから、レヴィンの持ってきた仕事の話を、ずっと考えていた。
悪い条件ではない。むしろ、最善の道だとは思っている。
でも、兄がこの修道院をどんなふうに運営してきたか、それをたしかめるのは、残された自分の責任ではないかとも思った。もしここがぐちゃぐちゃになっているなら、私はレヴィンの紹介してくれた仕事を断ってでも、ここに残って、この修道院のために何かするべきかもしれない……。
しかし、その足を踏み出すとなると、さすがにうきうきした気分にはなれない。
この修道院がどうなっているにしろ、私は歓迎されないだろう。醜聞の伯爵家の人間だから。
そう思って立ちすくんでいると、誰かが敷地内からひょいと顔を出した。
門の前に立つ私の顔をじっと見て、得心したように早足で近づいてくる。
「シスター・カタリナではないの?」
呼びかけられて私は相手の顔を見た。
見覚えのある顔ではなかった。
「……どなたかしら?」
私は失礼にならないていどの声で訊ねた。
「マルギットよ。聖ドロテアの孤児院の副院長をしていました」
聡明そうな広い額で、白髪まじりの黒髪をした中年女性だ。
「覚えていらっしゃらない?」
「……ごめんなさい」
「まあ……。でも、無理はないわ。一度しかお会いしたことがないんですもの」
「一度お会いしたのに、忘れてしまったなんて。本当にごめんなさい」
「いいのですよ。……以前、孤児院が不審火で焼けてしまったときに、孤児たちの行き先を探していたら、あなたが声をかけてくださったでしょう。あなたのお兄様……フランツ=ゴドセヴィーナさまのお声がかりで、孤児たちはこちらに引き取られることになって。あれから、本当によくしていただいているのですよ。いつかお礼を申し上げなければと、ずっと心のなかで思っていたのですけれど。念願が叶ったわ」
マルギットは嬉しそうにそんなことを言う。
その話を聞いて、私もおぼろげながら思い出した。そういえば、半年以上前に、そんなことがあったような気がする。
「それは、シスター・フィアに頼まれたからですわ。私は何も……」
「もちろん、仲介してくだすったのはシスター・フィアでしたけれど、あなたと、あなたのお兄様のおかげでもあります。ありがとうございました」
マルギットは私に向かって深々と頭を下げた。
私は内心複雑だった。それも結局、兄の腹黒い計算のたまものなのだ。自分を慈善家に見せるための。おかげで彼は王都の教会から深い信頼を得ていて、それで便宜をはかってもらっていたことも数多くあったのだ。
「……でも、その兄は……」
私はかげりのある顔で言いかけた。
「え、なんですって?」
マルギットは軽く目をみはって訊きかえす。
その様子から、彼女は何も知らないのだと分かった。兄のしでかしたことも、伯爵家がどうなったかも。
この修道院では、その話は誰もしていないのだろうか?
──そんなはずはないけれど。
だって、伯爵家からの送金も止まっているはずだし……。
「ただ……」
マルギットは顔を曇らせた。
私はいよいよ伯爵家の話が切り出されるのだと思って、身を引き締めた。
「シスター・フィアにお礼を言えなかったのが、残念で……」
「……シスター・フィア?」
「ええ。彼女のおかげで孤児院を無事に移転することができたのに、お礼を言おうと思ったら、彼女は重い病だと……。それ以来、噂を聞かなくなって。聖ドロテアのほうに病状はどうなのかと問い合わせても、いっこうに返事がなかったのです。それで私も不安になって、自分で直接たしかめようと思って、意を決して聖ドロテアに行ったのですけれど、『シスター・フィアはいない』と……」
マルギットはそう言いながら、急に何かを思い出したように涙ぐみはじめた。
「ひとりの修道女が忽然と消えてしまうなんて、そんなことがあるはずがないでしょう? だから私、ああ、彼女は亡くなったのだわ、と思って……。でも、孤児院の他のシスターたちは、『そんなことはない、きっと生きている』と言うのですよ。震える足で聖ドロテアの墓地にも行きましたが、それらしいお墓はなかったし、もしかしたら生きているのかもしれないと一縷の望みを持つのですけれど、いまはもう、つらくて、考えるのをやめようと……」
その話を私は神妙な顔で聞いていた。
内心では、冷や汗をかく思いがした。
それはシスター・エミリアの悪ふざけのせいだ。彼女が、フィアの結婚相手が誰かを突き止めようとして、フィアが重病で死にそうであると、そんな噂を王都中に言いふらしたのだ。
マルギットはそれを真に受けたひとりなのだろう。
そして、彼女が悩んで、聖ドロテアに来たときには、すでにフィアは聖ドロテアを出たあとだったというわけだ。フィアが修道院を出た理由は、実のところ私もよく分からないのだが、なんでも、生き別れのようになっていた伯母が修道院を訪ねてきて、その人と一緒に出た、ということらしい。シスター・エミリアの悪ふざけが、思いもよらない顛末を生んだのだ。
ただ、その話はシスター・カレンなどもあまりしたがらなかったから、私もそんなに深く聞かずにいた。結局、触れてはいけない話のようになってしまったから、マルギットが聖ドロテアに来たとき、誰もたしかなことを話さなかったのも、そのせいなのだろう。
私は黙っていた。マルギットに何と言うのがいいのだろうと思いながら。
フィアは生きている、というべきだろう。
しかし、そのうちに、彼女は王妃になるのだという話もしなくてはならなくなる。それは面倒だ。
王妃になれば、住む世界が違うようになるのだし、どうせなら、フィアは死んだということにしておくほうがいいのかもしれない。
「……希望はありますわ、シスター・マルギット。私はそう思います」
結局、そう言うだけにとどめた。
マルギットは私の顔をじっと見た。
「何か事情をご存じなの? シスター・カタリナ?」
「……だとしても、今は話せませんわ」
私はしぶしぶ打ち明けた。マルギットの目がきらりと輝いた。
「まあ……そ、それじゃあ、やっぱりシスター・フィアは生きてらっしゃるのね!」
マルギットは涙ぐんで叫んだ。私は頷かなかったが、首を横に振りもしなかった。
それにしても、と思う。
聖ドロテアにいたときのフィアときたら、毎日ださい勘違いや、どんくさい失敗ばかりしていた、という印象しかないのだが、不思議と人の記憶に残るようだ。私ならフィアがどこかで生きようが死のうが、あまり興味はないのだけれど。
──いや。
私は心のなかで呟いて、苦く笑う。
それは嘘だ。
そうじゃない。やっぱり自分も、時間が経てば経つほど、彼女のことを思い出していた。
フィアを懐かしく思い出し、彼女に会いたい、と思った。
マルギットも同じ気持ちなのだろう。そう思うと親しみが湧いた。
「そんなに心配してくれる方がいるなんて、シスター・フィアが羨ましいわ。彼女は、孤児院にときどき手伝いに行ってたようですけれど、きっと人一倍熱心に働いていたのでしょうね」
「熱心に働いていた……というのはたしかにそうですけれど、私には、彼女は修道女というより、自分が面倒を見ていた孤児の女の子のひとりのように思えたのですわ。シスター・カタリナ」
マルギットがしみじみと言った。
私はあきれて口が開きそうになった。──孤児のひとり?
「彼女の生い立ちをご存じ?」
「そういえば、耳にはさんだことはありますわ。孤児同然に育ったとか……」
その話は聖ドロテアの院長がしていたのだ。私はそれを、フィアをいじめる格好のネタを仕入れたと思い、心の中に刻み込んでいた。いまでも忘れてはいない。
「そうなのですよ。彼女は両親を早くに亡くされて、孤児院に預けられたそうです。『自分が行っていた孤児院ではひとりも友達ができなかったから、聖ドロテア孤児院の子供たちには、そんな思いはさせたくないのだ』と、彼女はそう言っていました……。本当に、まるで本当の兄弟姉妹のように、小さな子供たちと一緒に遊んでくれていましたわ」
──孤児院で何をしているのかと思ったら、どうやらフィアは、全力で遊んでいたらしい。
私は思わず苦笑した。
それはそうだろう。孤児院で有能に働くフィアなんて、悪いけれど、想像がつかない!
「彼女らしいですわね」
「子供たちは本当に喜んでいましたよ。シスター・フィアほど、子供と遊ぶのが上手な人はいませんでしたもの。かくれんぼでも、鬼ごっこでも、シスター・フィアがいないと、子供たちはつまらないと言って癇癪を起こしていました」
要するにそれは、心の年齢が子供と同じようなものだったということでは……?
私は心の声をそっと胸にしまったままでいた。私も大人になってきたから。
「今でも子供たちは言うのですわ。『シスター・フィアはどこ?』と……。私はそれを言われるたびに胸が詰まっていたのですけれど、今日あなたとお話しをさせていただいて、胸のつかえが取れました」
マルギットはほっとしたような顔で言うと、改めて、しみじみと私を見た。
「それにしても、今日はどうしてこちらに?」
「こちらの院長にお会いしようと思って、参りましたのですけれど」
私は控え目に言った。
マルギットは驚いたように目を丸くした。
「まあ……シスター・カタリナ! そういうことは早く仰って。私、あなたが偶然ここを通りがかったのだと思って、こんなところで長々と立ち話を……。さあさあ、寒いですから、早く中へお入りになってくださいな!」
マルギットは身をひるがえして歩き出した。
どうやら院長は不在ではないようだ。
聖イローナの建物の中に入る。
敷地内に入ると静かだったが、中はよけいに静かだ。しんと静まり返っている。
薄暗い廊下に、天窓からの光がぽつぽつとさしこんでいる。床に浮き上がった飾りのようだ。
この空気だ、と私は思った。これが修道院の空気だ。
ずいぶん長く忘れていた気がする。
自分と、マルギットの足音だけが小さく響く。
私は気持ちが落ち着いていくのを感じた。
さすがに歴史が古いだけあり、聖イローナは、聖ドロテアよりも一段重厚な雰囲気がある。エトヴィシュ公爵家があちこち手を入れて華美にした聖ドロテアとは違い、古い時代の、石造りの建物がそのまま残っているという感じだ。
「美しい建物ですわね」
私は思わず言った。
前を歩くマルギットは束の間足をとめて振り返り、微笑んだ。それから、またすぐに歩き出した。
2012 / 10 / 08. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 5

私は院長室に通された。
院長は私の突然の訪問に驚いたようだ。どこか、ばつの悪そうな顔をしている。
私は院長の勧めるままに、室内の、刺繍された赤い布張りの椅子に腰を下ろした。
目の前には大理石のテーブルがあり、その向こうに私が座っているのと同じ椅子がある。そこに院長も腰を下ろす。
思ったよりも若い人だった。五十代くらいかと思ったけれど、四十代という感じだ。
「今日は……あの、どのようなご用件で、こちらにいらっしゃったのでしょう?」
院長はまごつき、うつむきながら言った。
最初に見たときは、ほっそりとした、楚々とした雰囲気の人だと思った。しかし、そうして深くうつむいていると、その顔はどことなく卑屈にも見えた。膝の上に組み合わせた手が所在なげだ。
「ゴドセヴィーナ伯爵家のことは聞いておりますわ……。おとり潰しになったとか……。伯爵はご病気で寝込まれ、ご子息のフランツさまも、行方が知れないとか。こちらにも、あの方が身を寄せていないかどうか、憲兵隊が確認に来られました。大声を出しながら、あちこち勝手に扉を開けたり、中のものをかき乱したりして、本当に、情けないような騒ぎになりましたわ……」
院長は、私が何かいうのを待たず、そんなことをとつとつと喋った。うつむいたまま。
「正直なところ、あの……め、迷惑なんですわ。突然、いらっしゃられても。わたくしも、ゴドセヴィーナ伯爵家とは縁続きでしたけれど、その縁も、このようなことになったからには、切らせていただくほかないと思い詰めて……。そう決意して、この修道院も、ほかの貴族のかたにお引き受けいただけないかと、教会のほうに問い合わせているところなんです。今のところ、教会を通じて、何人かの方に好意的なお返事もいただいていますから、経営のほうは、心配はないと思うんです。ですから、あの……」
「伯爵家のことで来たのではありません」
私は口を開いて言った。この部屋にきてようやく、まともなことを喋った気がしながら。
「……え?」
院長は意外そうな顔で私を見た。目の下にはくまがある。
院長は院長で、心労があったのだろう。
きつくなりそうだった口調を和らげ、続きを話す。
「……ごめんなさい。私は、あなたに謝らなければならない立場です。本当に、いろいろとご迷惑をおかけして、伯爵家の一員として申し訳なく思っています」
「そ、そんな……。謝ってなど、いただかなくても……」
院長はますますばつが悪そうに縮こまってしまう。
「たしかに伯爵家はなくなりました。兄はお尋ね者にもなりました。……でも、私は兄とは関係ありません。このことは誓って申し上げることができますわ。兄をかばうつもりも、兄をかくまうつもりもありません。兄は罪びとです。ですから、裁かれるべきです」
「………」
私の言葉に、院長は何も言わない。黙ったまま、組み合わせた手を気まずそうにさせている。
「私も伯爵家の一員でした。私は伯爵令嬢として、何不自由のない、豊かな生活をしていました。でも、その豊かな生活は、兄がこの国を裏切り、不当にせしめたお金によってなされていたものでした。そのことを、私は今は恥じます。自分の人生が、一族の裏切りによって成り立っていたことを、心から恥ずかしく思っています。ですから、私も、自分は罪びとなのだと思っています。……そのつぐないは、これからしていくつもりです」
私は言葉を選びながら言った。
院長は顔を上げた。疲れた、くまのある目で、はじめて私をじっと見た。
「どのように、償われるおつもりなの?」
彼女の言葉は、けして強いものではなかった。しかしそれは、ひどく鋭く私に向かってきた。
「……まだ、分かりません」
私は正直に言った。
「とりあえずは、私も生きて行かなくてはいけませんし、何か仕事を見つけるつもりでいます。幸い、斡旋してくれた方もあるのです。悪い勤め先ではありません。それどころか、好条件です。でも、それがなければ、私はこの修道院に虜囚として送られるはずでした」
「虜囚、ですって?」
院長は目を見はった。
「王家を裏切ったゴドセヴィーナ伯爵家の人間ですから、ここへ幽閉されるはずでした」
「幽閉……。ここに……」
院長は言葉を詰まらせた。思いがけないことだったようだ。
「でも、あなたは、その……銀の横流しに、関わっていたわけではないのでしょう? あなたはただ、伯爵令嬢だったというだけで……。無力だったのですわ。残酷な言い方かもしれませんけれど」
「………」
私は何も言わなかった。たしかに院長の言葉は、残酷にも聞こえる。
けれど、事実だ。私は無力だった。……兄が良くないことに手を染めているのは薄々知っていたけれど、それに深入りしようとは思わなかった。知っていても、それを止める力などなかった。
「それは、わたくしも同じ。ゴドセヴィーナ伯爵家がこの修道院を買い取ったとき、そのお金がそんな出所のものだったなんて、思ってもみませんでした。いまさら、こんな事件になっても……。どうすることもできませんわ。憲兵の方にも申し上げましたが、本当に、わたくしは何も知りませんでしたから」
院長はかたくなに言う。
「ただ、この修道院の運営を任されただけですわ。あなたのお兄さまから」
「それが汚れたお金だったという事実は消せませんわ、院長。……そうでしょう?」
「わたくしにどうしろと仰るの?」
院長は私を責めるように見た。
「辞めろと仰るの? 責任を取って、辞めろと?」
「そうは言っていません。ただ、私もあなたも、ゴドセヴィーナ伯爵家に関わりのある者として、知らぬ存ぜぬではすまされない、と言っているのです」
院長が頑なな態度をとるので、私も意地のようになっている。
こんな話をしにきたわけではないのに……。
「本当のことを仰ってくださらないでしょうか? カタリナさま」
「何がですの?」
「あなたは、先ほどこう仰いましたわね。いい勤め先を紹介してもらえたと」
「ええ、言いましたけれど?」
「それは、この修道院の院長職のことではないのですか?」
「……え?」
あまりにも思いがけないことを言われ、言葉に詰まる。
院長は暗い目をして話し続ける。
「わたくしを辞めさせて、あなたがそのあとにつく……。そういう話があなたのところへ入ってきて、あなたは、わたくしと話し合いをするためにここにいらしたのでは? 無理やりわたくしを辞めさせるのではなく、話し合いのうえで、納得づくでそういうふうにするために?」
院長は怨念さえこもったような目で私をじっと見つめた。
私は面食らった。いったい何を言っているのだろうと思いながら。
「違います。そんな話はありませんわ、院長」
「では、どうしてこちらにいらっしゃったの? ご自分が歓迎されない人間だとは思われなかったのですか? あんなに醜聞になった伯爵家の令嬢であるというのに!」
「それは分かっていました。でも、兄がかかわった修道院が、今はどんなふうになっているのかを知りたいと思ったんですわ。……それに、自分が幽閉されるかもしれなかった場所を、一度はしっかり見ておくべきだと思ったものですから。それがそんなにご迷惑なことでした?」
「迷惑ですわ……。最初に申し上げたとおり、突然、あなたに来られても……」
院長の声は震えている。膝の上の手も小刻みに、同じようになっている。
「あなたはいったい何をおびえていらっしゃるの?」
私はなかばあきれて訊いた。院長は首を大きく振った。
「おびえてなんかいません」
「おびえていらっしゃるわ。……私が来たせいで、あなたが追い出される? そんなはずがありません。私は言ったはずです、ここへ幽閉されるはずだったと。そんな人間が、あなたを追い出したりなどできるものですか!」
「そのはずが、どなたかが、あなたに『この修道院の院長にならないか』と持ちかけたのではありませんか? そうすれば、あなたはこの修道院から出られませんものね? ある意味では、虜囚のようなものですわ! ずっとここにいられるでしょう!」
院長は妙なことをまくし立てる。
私はわけがわからなくなった。
「……落ち着いてくださいな、院長! 本当に、いったい何を仰っていらっしゃるの?」
「……帰ってください」
院長は再びうつむいて言った。
「申し上げたいのは、それだけですわ……」
私はしばらく黙っていた。
この修道院の運営の状態がどうか、兄がいなくなって困ったことはないか、伯爵家からの送金が止まって、資金繰りが苦しくなっていないか。
そんなことをきくどころではない。
私は苦い気持ちで立ち上がった。
「私がここへ来たのは間違いだったと分かりました」
院長はうつむいて座ったままでいる。私にはもうヴェールの上部しか見えない。
「もう一度申し上げますわ。私は、あなたを追い出しに来たわけではありません。そんな誤解をされたことを、心外に思います。私は伯爵家の人間としてあなたに謝りたかったし、自分にできることがあるなら、何かお手伝いしたいと思っただけです。……でも、考え違いでした。私がここに来ないのが、この修道院にとっては一番いいことなのだと分かりました」
「……そうですわ」
院長は小さな、蚊の鳴くような声で言った。しかし、その言葉は私の胸に突き刺さった。
こんなに馬鹿にされたことはない。
何か言い返してやらねば、さすがに悔しい気持ちがした。
「私も、別のところで働く決心がつきました。迷っていましたけれど。……感謝いたしますわ、院長」
「………」
「失礼します」
私は院長室を出た。できるかぎり静かに扉を閉める。
外の廊下は暗く、静まり返っていた。底冷えするような寒さが急に来た。
外を見れば、もう日が暮れている。私は腕をさすった。
そして無言で、その暗い廊下を、足早に歩き去った。


「馬鹿にして!」
道すがら、私は癇癪を起こして民家の石壁をけった。夜だから人けがないのを幸いに。
「なんなのよ、あの人は! 頭がどうかしているんじゃないの!」
悔し紛れに、赤い顔で怒鳴りちらす。
こんなに馬鹿にされたことはなかった。
人と会って、こんなにむしゃくしゃする、暗い気持ちにさせられたのも。
あの院長は言っていた。
『ゴドセヴィーナ伯爵家とは縁を切る』と。
そうして、自分は関係ないと思いたいのだ。醜聞をおこした伯爵家とは関係ないと。そして自分の地位は安泰だと信じたいのだ。それをにわかに奪われそうになって、ヒステリーを起こしたのだろう。
落ちぶれた伯爵令嬢が、生き延びるために、修道院の院長職を奪いに来る?
妄想もいいところだわ! と私は心の中で怒鳴った。そんなに落ちぶれてなんかいない!
──でも。唇を噛む。
──でも、これが末路なのだ、と私は思った。
国を裏切った貴族。
その貴族の末路なのだ。
どこへ行ってもこんな、鼻つまみ者のような扱いになるのが当然なのだ。
そう考えると、私の怒りも少しずつおさまってきた。
私は心を決め、暗い道を猛然と歩いて行った。
2012 / 10 / 09. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 6

その晩も、レヴィンと一緒に食事をした。
城の食堂。
普段なら国王が食事のときに使う部屋なのだろう。広くて立派な部屋である。
でも、いまはそこはがらんとしている。長いテーブルには私とレヴィンがいるだけ。
「あなたって、王族でもないのにここで食事をしてらっしゃるの?」
私は呆れて訊ねたが、レヴィンが言うには、ここは他の者たちもたまに使うのだということだった。国王がそれを許可しているのだと。
「特に仕事で、誰かと会うときなどにはね。……それに、あの方は留守ですから」
レヴィンは、公爵家に負けず劣らず豪勢な料理をつつきながら言う。
「まあ、これもあなたにとっては仕事ってわけね……」
私はあまり食欲がなかったから、目の前に運ばれてきた新たな皿を見てため息をついた。公爵邸であんなに食べてしまったから、もう何も入らないような感じだけれど。
それに、胸がいっぱいになるようなこともあった。
私は椅子の背にもたれて、自分の長い髪の先をいじりはじめた。
「例のお話ですけれど……」
「カタリナ嬢、そういうことをするのはやめてください」
レヴィンは私の向かいからぴしりと言った。私は顔を上げた。
「え? 何?」
「髪をいじるのを」
「……あ、これ? ……ごめんなさい。癖なの」
「おやめになったほうがよろしいでしょう。金輪際」
「そんなに気に障ったの?」
「……頼みますよ。あなたには次期王妃の教育係もやっていただきたいというのに」
レヴィンが食事の手を止めてため息をつく。
「まあ、引き受けてくださればの話ですがね」
私は彼の顔を見た。
「……そのお話だけれど、気持ちは固まりましたわ」
「そうですか」
「引き受けます」
「それがよろしい。あなたのためにも」
レヴィンは、この話はこれで終わったとばかりにまた食事を再開する。淡々としたものだ。
「もう少し喜んでくださらないの? 執務補佐官?」
「なぜわたしが喜ぶ必要が?」
レヴィンは眉をひそめてみせる。
「なぜと言われたら、そうだけど。でも、けっこう重大な決意なのよ。あのフィアの使用人になるというのは!」
私は憤慨して言った。
「それはそうですね」
レヴィンはようやく納得したように、頷いた。
「大変なご決断をしていただき、ありがとうございます。カタリナ嬢」
と言いながらも、彼は目の前の魚料理を優雅な手つきでさばくのに集中している。
魚よりどうでもいいこと? 私はちょっと顔をしかめた。
「今日、聖イローナに行ったのですけれど、嫌なこともあったのよ」
「ほう」
「それで、と言ったらなんですけれど。結局、わたしはあなたの申し出を引き受けるのが、運命なのではないかと思った次第よ」
「嫌なこととは?」
レヴィンはワインの杯を持ち上げながら言った。
「なんと言ったらいいのか……」
私は胸の前に落ちた髪の先を片手でいじりながら言ったが、またそれをレヴィンに睨まれてやめる。
「院長が、おかしなことを言うのよ」
「おかしなこと?」
「私が、聖イローナの院長職を狙ってる、みたいに言い張るの」
「……ほう?」
レヴィンは少し興味をひかれたようだ。私を見つめる。
「それはたしかに、妙なことを言われたものですね」
「そうでしょう? そんなこと、考えるわけないのによ。でも、落ちぶれた伯爵令嬢は、なりふり構わないことをするんじゃないかと、その院長はお考えになられたようなのよ。それで言い争いのようになってしまったわけ」
「なるほど。見ものだったでしょうね、それは」
レヴィンはおかしそうにくすっと笑った。
そういう、普通の笑い方も出来るのだと知って、私はちょっと意外に思った。なんだか、ちょっとかわいく見えたからだ。私は机の上に肘を乗せ、頬杖をつきながらため息を漏らした。
「なんだか、本当に情けなかったわ……。急に自分が浅ましい人間になったみたいで」
「浅ましいのはその院長であって、あなたではないでしょう」
しごくまっとうなことを言ってくれる。それは嬉しいけれど。
「そうだけど。でも、そういう人間に見られたってことでしょ。……それにしても、院長職って、そんなにいいものなのかしら? 人に取られると心配になるほど?」
「さあ……」
「お小遣いがいいとか? ……でも、自由に使えるお金があったって、修道院の外に出る機会なんてたいしてないわよね。それに、どこへ行っても人に見られてるし。修道服を着ているから」
「聖イローナは、今は運営資金を拠出してくれるパトロンを探しているところでしょう。散財する余裕などないと思いますが」
「そうよねえ……」
「ワイデ侯爵夫人が乗り気のようですがね。あそこの奥方は暇を持て余しておられますから。しかし侯爵本人は気乗りがしないようです。ゴドセヴィーナ伯爵家と関わりがあると見られるのを警戒しているのです。なかなか用心深い方ですからね」
「へえ……」
パトロンの話には興味はない。でも、そんなことまで私に話してくれるんだ。この人。
「私も、あなたに信頼されてきたということかしら? そんな内実の話をしていただけるなんて?」
「信頼? 最初からしていますよ、カタリナ嬢。そうでなければ侍女の話などしません」
レヴィンはすまして言う。そこのところは、やっぱり腹の中が読みにくい人だと思う。
「もっと突っ込んだ話をしましょうか?」
彼は私をじっと見た。妙に凄味のある目に見えた。
「まあ、恐いわね。どんなお話かしら?」
私はわざとらしく首を傾げて訊きかえす。
「あなたの兄上が処罰されるのは、銀の横流しの件のためだけではありません。それと同じくらいの罪だと考えられたのは、自分の一族の娘を王妃にしようとし画策したこと、そのために国王にとって重要な人物を傷つけようとしたこと。このためでもあります」
「……どういうこと?」
私は顔をこわばらせた。
一族の娘を王妃にしようとしたのは知っている。兄はそれを私にさせるつもりだった。私を国王の妃にしようとしたのだ。私はそれを知って兄を見限った。兄の愛が完全に偽りだったと、心の底まで思い知らされたから。
でも、国王にとって重要な人物を傷つけようとした? それは知らない。
「フィアを……どうかしようとしたの? 兄は?」
「彼女を殺すと。そうほのめかしてきた。彼が直接そう言ったわけではありませんが、その件の裏にいたのがあなたの兄であったのはほぼ確実なことです。それをたしかめるために憲兵に追わせているのですが、まだ見つからない」
「兄がそんなことを……」
私は青ざめた。今度こそ、これ以上ないというほど兄を軽蔑したい気分だった。
「フィアを死なせて私を王妃なんかにして。それで、国王の気持ちが私に向くと思ったのかしら? ……愚かな人!」
私は信じれない気持ちで激しく頭を振った。
レヴィンは頷いた。
「だから、彼女を死なせずに、国王から遠ざけようと画策したのですよ。彼女を殺さないことを条件に、別の娘を王妃にしろと迫ってきた。……まあ、すべては終わったことですから、いいのですがね。あとは彼を捕えるだけです。それにはあなたも協力していただきたい」
「……もちろんよ」
私は頷いた。けれど、その言葉を口にしたとき、自分でも思いがけないわだかまりはあった。
──何よ、今さら。あの人のことなんて、どうだっていいのに。
私は自分にいらだった。この期に及んで、まだ兄に執着しているなんて思いたくなかった。
「あの人が私の目の前に現れたら、間違いなく、憲兵に突き出してやるわ!」
私はもう一度言った。強い口調で。
レヴィンは私の顔を見た。
「お願いします。そうすれば、あなたを王妃の侍女にすることに関して、支障になるものは何もなくなる」
「……そうね。罪人の兄がいるのに、王妃の侍女になるわけにはいかないわ」
私は、たしかにそうだと思いながら言った。
「それじゃ、当分私は侍女にはなれそうもないわね。兄は簡単に捕まる人ではないから」
「あちこち調べさせてはいるのですが、いっこうに見つからない。あなたの領地のほうでも、ずいぶんと手をかけて捜索しているのですが……。あなたにも心当たりになる場所はありませんか?」
「残念ながら、ないわ……。私のところには何も連絡がないし。もう来ないと思う」
「ふむ……」
レヴィンは考え込むように片手を顎にやる。
「父のところにいるというのが、一番確率が高いとは思うけれど」
「そうでしょうね。しかしあなたの父上の領地も、広いですから。見つけるのには時間がかかりますね」
「じゃあ、どうするの? 私はそれまでぶらぶらしていればいいわけ?」
「……まあ、あまり表には出ずに、まずは部屋詰めということでどうでしょう?」
「私には選ぶ権利がないわ。あなたがいいと思うようにしてくださいな、執務補佐官」
「では、そうします」
レヴィンは頷いた。そして立ち上がった。
「部屋までお送りしますよ」
「あら、ありがとう」
私も立ち上がった。
「助かるわ。まだ自分の部屋の場所を覚えていないのよね」
「城の中は入り組んでいますからね。それなりに」
「部屋がたくさんありすぎて、どれも同じに見える」
「空き室ばかりですが、たまに住人がいるのでご注意を」
レヴィンは冗談めかして言い、食堂を出る。私もそれに続いた。
2012 / 10 / 10. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 7

私は自分の部屋の扉に手をかけた。
「では、お休みなさい」
レヴィンは私に、一本のろうそくの明かりを手渡しながら、微笑んで言った。
私も彼に微笑み返した。そして、ろうそくの台の取っ手を指に絡めて受け取る。
「お休みなさい、執務補佐官」
歩き出したレヴィンの背中を、私はしばらく見送っていた。
「……ねえ?」
私はふいに彼を呼びとめた。薄暗い廊下で、彼が振り返る。
ろうそくの明かりは私の足元だけを照らしている。部屋に明りをともすために、ここへ来る途中で彼が持ってきてくれたもの。その光。
「あなたって、結構いい人ね」
「……その台詞は一年後に聞きたいものですね。一年後には、誰もそう言ってくれなくなりますから」
彼の淡々とした声が聞こえてくる。顔はぼんやりとしか見えない。
「じゃあ、一年後に言うわ。長い付き合いになりそうだし。……覚えていたらね」
「そう願いたいものです」
レヴィンはそう言って立ち去った。
私はくすっと笑って、部屋の扉を開けた。
ろうそくの台を、テーブルの上に置く。別のろうそくにその火を移して、別の明かりを灯した。それでようやく、室内が全部見えるようになる。
それなりに広い、きれいな部屋だ。ベッドも大きい。
窓の鎧戸を開ける。月夜が見えた。
私はそこに腰を下ろした。窓のすぐ下に立派な椅子があるのだ。
月を眺めていると感傷的な気分になった。少し前は、伯爵家が潰れて、自分が王城の一室にいるなんて、そんなことは想像もしなかった。
──それに、あのフィアの侍女になるなんて!
私は苦笑いをした。フィアも、この話を聞いたら仰天するに違いない。そして言うだろう。
「シスター・カタリナ、ほ、本当にいいの? それで?」──と。
それでいいの、と私は心のなかで呟く。
今になってみると、不思議と、昔から知っていたような気がする娘だ。
何か不思議な縁があるのだろう。だから、こういうことになったのだ。
私は窓枠に肘を乗せて、しばらくぼんやりしていた。
ふいに、またあの院長のことを思い出した。

──『帰ってください』。

あの、思い詰めたような暗い声。
いやだいやだ、と私は身震いした。あんな陰気な人のこと、思い出したくない。
けれど、そのことが頭の中から離れなかった。
院長の言葉の数々が、まるで耳元で言われているようによみがえってきた。
私はいらいらして立ち上がった。部屋の中を歩き回る。
そうして、どれくらい歩き回ったときだろうか。
私はふいに足を止めた。何かがひらめいた気がした。
「……そうよ。そうだわ。どうして気がつかなかったの?」
私は呟いた。自分の胸の中に生まれた確信を見つめながら。
「だから……あの人、あんなことを言ったんだわ!」
私はまた身震いした。
自分の想像が恐ろしかった。でも、それは間違っていないだろうという気がする。
女の勘、と言えばいいだろうか。
それはつまり、こういうものだった。
あの院長は、兄と何かの付き合いがあったのだ。何か……それは、深い付き合いだったに決まっている! だから、修道女でもないあの女が、突然聖イローナ女子修道院の院長に抜擢されたのだ。
兄の女だから。
兄の言うなりになる女だから!
その女の管理する修道院へ、兄は私を移そうとしていたのだ。
今さらのようにぞっとした。
あの人は私に愛の言葉をささやきながら、その一方で、あの女にも同じようにしていたのだ。
そのことを、あの女も知っていたに違いない。だから、私を見るやいなや、あんなふうに攻撃的な態度に出たのだ。もともとはそういう性格の持ち主ではないだろうに、必死で、私を目の前から追い払おうとしたのだ! ただ必死で!
私は戦慄した。何か、背中に冷たいものが駆け抜けた気がした。
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出した。
そして、まっくらな城の廊下を走りに走った。
「執務補佐官! ──執務補佐官!」
私は叫んだ。城の廊下は長く伸びて、いくら走っても先が見えない気がした。
「執務補佐官、いないの!? ──レヴィン=アーミス。レヴィン=アーミス!!」
私は何かに追い立てられるような恐怖を感じながら怒鳴った。
けれど、城の廊下はしんと不気味に静まり返るばかりだ。私は叫びながらついに、突き当たりまで走りきってしまった。ここから先は、今度は廊下は左右に伸びてゆく。人けはない。
私は心細さのあまり泣き出しそうになった。
心細い以上に、みじめで、たまらなかった。自分という人間は、あのフランツ=ゴドセヴィーナという男に、何度、誇りを踏みにじられたのだろうと思うと、怒りと悲しみで頭がぐちゃぐちゃになって、息をするのも苦しかった。
私は前髪に両手を突っ込んだ。そして、泣きじゃくりはじめた。
泣きながら、もときた廊下を引き返し始める。
ギィィ、と音がしたのはそのときだった。無数に立ち並ぶ扉のうちのひとつが、開いたのだ。
「……カタリナ嬢?」
いぶかしげな声がした。レヴィンの声だった。
私は息をのんだ。それから、走り出した。
「レヴィン=アーミス!」
「なんですか? さっきから。こんな夜中に、人の名前をやかましく何度も──」
さきほどよりもくつろいだ格好になっていた彼に、私はなりふりかまわず飛びついた。
彼は片手に持っていた銀の燭台を取り落しそうになっていたが、かまわなかった。
「危ない! 火を持っているのですよ、カタリナ嬢!」
彼は怒ったような声で言った。
「離れてください!」
「……ごめんなさい」
私は泣きじゃくりながら彼から離れた。
彼は蝋燭の火で私の顔を照らした。そして、あきれ果てたような顔になった。
「なんですか、突然泣いたりして。夕食をあまり召し上がらなかったせいで、いまさら腹が減った、などというつもりではないでしょうね?」
その言い方がおかしくて、私は泣きながら笑った。
「ち、違うわ。シスター・フィアじゃないんだし、そんなことは言わないわよ……」
「では、なんなんです? ……とにかく、中に入ってください。隣の部屋にも人がいますから」
「そうなの? ……あ、案外、人がいるのね。ここ」
「幽霊城ではないんですよ。さっきも言ったでしょう? 空き室も多いが、住人はいると」
部屋の中にはいくつか明かりが灯っている。いま、火をつけたばかりというようだ。
きれいに整頓された部屋だ。
調度品は私の部屋にあるものとは全然違う。なんというか……異国風なのだ。
明かりが灯るガラスの台も、その下にある棚も、すべてが、物語に出てくる砂漠の宮殿の中にあるものに似た、異国情緒を漂わせている。そして、それらは美しい統一感を持っている。
絨毯は最高級のものだ。踏んでいるだけでふわふわする。
私は泣くのも忘れて、驚いて部屋の中を見回していた。
「す……すごい部屋ね。まるで、砂漠の国の王族の人の部屋みたいだわ」
「珍しいものを集めていたら、このようになってしまったのですよ」
レヴィンは肩をすくめる。
「今日、エトヴィシュ公爵邸で話していたでしょう? すべてアゴランからの交易品です」
「公爵さまと同じ趣味をお持ちなんて、あきれたこと! 貴族でもないくせに」
きっと馬鹿みたいに高いのだろうと思いながら私は叫んだ。
「泣きながらけなしにきたのなら、帰っていただけませんか?」
レヴィンは不機嫌そうに言った。
私は手の甲でぐいと涙をぬぐって、彼を見上げた。
「そ、そうだわ。そんなことを言いに来たわけじゃないのよ」
「いったいなんなんです? 急に」
レヴィンは私を不審げな目で見ながらも、涙を拭う布を近くから取って貸してくれた。
「……これ、何かの敷物じゃなくて? 花瓶か何かの?」
私は、彼がそれを取った棚の上を見ながら言った。
「他に適当なものがないのですから、仕方ないでしょう。それに、使ってませんよ」
「……まあ、いいけど」
私は花瓶の敷物で涙を拭いた。たしかに上等の布のようではある。嬉しくはないけど。
それから、大きく息を吸って気持ちを落ち着かせた。
「すごいことを閃いたのよ、レヴィン=アーミス!」
「……ほう」
レヴィンはうさんくさそうな顔で私を見た。
「泣きながら走ってくるくらいすごいことなのですから、すごいのでしょうね」
「ええ、そうよ。あなたも、聞けば驚くと思うわ」
「だから、何です? 早く言ってください。これでも朝が早いのですよ、わたしは」
レヴィンはいらいらし始めている。
私は彼を改めて見た。
「兄は、聖イローナにいるかもしれない。……そう閃いたの。女の勘で」
「……ほう?」
レヴィンは、片眉をつり上げた。
彼は私の肩に軽く手を置いた。その顔は仕事のときのものになっている。
「その件、詳しくうかがいましょうか? カタリナ嬢」
2012 / 10 / 11. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 8

「……それで、また俺が駆り出される羽目になったってわけですか?」
事情を聞いた近衛騎士のべリス=ゲティミナスは、うんざりしたようにくせ毛の頭を片手で掻いた。がりがりと。
「いい加減にしてくださいよ、執務補佐官! 俺はあなたの使用人じゃないんですから!」
「王家に逆らった者を捕えるのが、近衛騎士の仕事だろう。嫌だとは言わせんぞ」
レヴィンはベリスに対して腕組みまでし、高圧的な物言いをしている。
「かーっ! こんな時間に人をたたき起こして、『いやだとは言わせんぞ!』」
ベリスは寝巻のままで地団駄を踏んだ。
──ここは彼の家だ。夜中に城を抜け出した私とレヴィンは、馬車を走らせてここへ来た。私はどこへ行くのだろうと思っていたが、レヴィンが扉を叩くと、しばらくして中からすごい顔をして出てきたのがベリスだった。
すごい顔というのは、こんな時間に誰だというような、噛みつかんばかりの顔のことだ。しかし相手がレヴィンだと知った瞬間、その顔からは血の気が引いていた。
そしてここは彼の家の中だ。居間のような場所である。
私は椅子のひとつにちょこんと腰をおろして彼らのやり取りを見守りながら、そういえばこの二人って、前も一緒に行動していたっけ、と思い出していた。あのときは勝手に兄の家を家探しされたあげくに、私は殴って気絶までさせられて──レヴィンに──ひどい目にあったけれど。
思えば、兄が銀の横流しをしていたのが明らかになったのは、あの家探しのせいなのだ。
そう思うとさすがに少し複雑な気分にはなる。
「頼みごとならサムエルにしてもらえませんかねえ? あいつはあなたの腰ぎんちゃくって呼ばれてるんだから! 使い勝手もあっちのほうがいいでしょうに!」
「彼は例の村の馬小屋にいる。呼べば半日かかるではないか。だから妥協しているのだ」
「……あーくそっ、そうだった!」
ベリスはまた頭を掻きむしった。
「俺だって、昨日馬小屋勤務から解放されたばっかりなんですよ! やっと休暇がもらえて王都に戻ってきたってのに! なんだってまた仕事に駆り出されないといけないんですか!」
「給金なら私が自腹で出してやる。ごちゃごちゃ言うな」
「……どうせはした金でしょ! ぺっ」
ベリスは唇をとがらせてレヴィンを見た。騙されない、という顔だ。
「いい夢を見てたところをたたき起こされて、銀貨の一枚や二枚じゃやってられませんよ!」
「金貨三枚」
「……やりま、す」
ベリスはうなだれて簡単に折れた。見ている私のほうがびっくりした。
「このところ、賭けの負けが混んでるんで……」
ベリスはぶつぶつ言った。レヴィンは頷く。
「知っている。借金が金貨で二十枚分だそうだな」
「げ……なんで金額まで」
ベリスはひくひくと顔をひきつらせている。この男も表情がはっきりしていて面白い。
「どんな些細なことであろうと、私の耳に入らないことなどないのだよ、ベリス卿」
レヴィンは勝ち誇ったようににやりと言った。
私はその横顔をまじまじと見つめてしまった。
……いい人だと思ったけど、一年後には誰も言わなくなるって、こういうこと?
なんでも知っているなんて不気味すぎる!
私は彼の横でひそかに身震いをした。そして一歩さがって彼から離れた。
「……んで? どうすりゃいいんです? 結局!」
「フランツ=ゴドセヴィーナが聖イローナにひそんでいるとして、出せと言っても院長は応じないだろう。その院長が匿っている可能性が高いのだからな。他の修道女も知らない可能性がある」
「もう憲兵が隅々まで捜索したんでしょ? 本当にそこにいるんですか?」
「カタリナ嬢の勘だ」
「ふうん……」
ベリスは私をじろりと見た。ぶしつけな視線の男だ。
「でも、こう言ったら気分を害するかもしれませんが、そこのお嬢さんはゴドセヴィーナ家の女ですよ。兄貴を売るようなことをするなんて、考えられませんね。なんか騙されてるんじゃないですか?」
「私はもうあの人とは関係ないの。赤の他人よ」
私はたしかに気分を害しながら言った。
「兄を売るのかと言われても、私は自分の考えを引っ込めるつもりはないわ。兄はあの修道院にいる。絶対にそうよ。だから早く捕まえて!」
ベリスを睨みつける。
「恐いですねえ、女ってのは……」
ベリスはおどけたように肩をすくめた。
「破滅した男は、簡単に見捨てられるってわけだ。血のつながった兄妹でも」
「与太話はいい。なんとしてもフランツ=ゴドセヴィーナは捕えなければならん。それは陛下のご命令でもある」
「自分の命令も忘れちゃってますよ、どうせ。シスター・フィアと楽しくやってるんだし」
「そのシスター・フィアの身に危害を加えようとしたのがフランツだぞ。逃がしたらまた同じことを企むかもしれぬだろう」
「まあ、それはそうですが……」
ベリスは渋い顔で頭を掻いている。
「明日じゃ駄目なんですか? ……眠くてしょうがないんですが」
「明日なら金貨一枚だ」
レヴィンはそっけない。
「……へえへえ! やりますよ、やればいいんでしょうが! 俺がこんな夜中にも起きだして陛下のために働いたってことを、ちゃんとあの人に言っておいてくださいよ、執務補佐官!」
ベリスはついに諦めたようだ。外で顔を洗ってくると言って家を出て行く。
「ねえ、執務補佐官」
私はレヴィンに声をかけた。彼は私を見た。
「本当にあの人、仕事できるの?」
「その質問は二度目ですよ、カタリナ嬢」
レヴィンは淡々と答える。私は苦々しくため息をついた。
「……それならいいけど!」


「自分の女を修道院長にねえ……。あなたの兄上もなかなかやりますね」
ベリスは馬車の中でそんなことを言う。
彼はすっかり目が覚めた顔をしている。腰に剣をさし、服装もきちんとなっている。きちんと、といっても、少し着くずれた着こなし方ではあるけれど。見苦しいというほどではない。
「それは私の推測だけど。たぶんそうだわ。まったく、おとなしそうな顔をしてとんでもない人よ!」
私は苦々しい顔つきで言った。その顔をベリスはしげしげと、不思議そうに見た。
「兄貴の女に、そんなに腹が立つんですか? カタリナ嬢?」
「……え?」
私はあまりにも自分の考えに没頭していたから、急にそんなことを言われても、何を言われているのか分からなかった。けれどそのうちに、何か心の中を言い当てられたような気がして、急に気まずくなってくる。
「……別に。ただ、院長になって修道院を乗っ取るつもりだなんて言われて、腹が立ってるだけよ。あんな侮辱を受けたことはないわ」
「あなたに修道院の中をうろつかれたくなかったのでしょう。それに、あなたには院長になる権利はあった。聖イローナは、書類上はまだゴドセヴィーナ伯爵家のものですからね。近いうちにその所有権は書き換えられることになるでしょうが……」
レヴィンはいったん言葉を切り、続ける。
「まあ、あなたをなかば幽閉するために院長に据える──王家の指示で──という発想も、ありえないものではありませんね。要するにその院長は、自分は院長に相応しい人間ではないということをどこかで分かっているのではないですか。だからそれほどおびえたのでしょう」
レヴィンの分析は合理的なものだった。それを聞いているうちに私もほっとしてきた。
「そ、そうね。あなたの言うとおりだと思うわ……」
「フランツ=ゴドセヴィーナを匿うということは、まだ縁が切れていないということでしょうし」
「………」
私はそれには何も言えなかった。
たしかに、そうだろう。あの院長はまだ兄と繋がっているのだ。だから匿う。
「まあ、彼が本当にそこにいるならの話ですが……」
「いるわよ」
私は断言した。
「あのときの院長の取り乱しようは、明らかにおかしかったわ。私が院長になりたがっている、なんて支離滅裂なことを言っていたけど、本当のところは、兄をかくまっていたから、早く出て行ってもらいたかったんじゃないかと思うのよ」
「……院長室、だったかもしれないな。案外……」
レヴィンがぽつりとつぶやいた。その言葉は私をぎょっとさせた。
「え? な、なんですって?」
「そのとき、院長室にフランツがいた。あなたが突然扉の前まで来たので、とっさにどこかに彼を隠した。それで、それほど取り乱した……。そうでなければ、もう少し落ち着いた対応ができたはずでは?」
私は落雷に打たれたような気持ちになった。
──あのとき、あそこにフランツがいた?
あの時の言葉をすべて兄に聞かれていた?
罪びとで、裁かれるべきだと言ったのを?
私は顔から血の気が引くのを感じた。吐き気がして、口元に思わず手をやる。
「……大丈夫ですか? カタリナ嬢」
レヴィンが眉をひそめて私を見た。
「大丈夫よ」
私は言ったが、全然大丈夫ではなかった。
私は取り乱していた。今度は私のほうが。
──何をしているのよ、カタリナ? あなたは何も嘘なんかついていないじゃない。あのときの言葉はみんな本当のはずよ。だったら、それを今さら聞かれたからって、何を取り乱す必要があるの?
頭ではそう思うのだが、それとは別に、体のほうが勝手に冷や汗をかきはじめている。
「わ、私、修道院の中には入れそうにないわ……」
かろうじて私は言った。心臓が不吉に鳴っている。
「それは駄目ですね。あなたにも来ていただかないと」
レヴィンは冷たく言った。私には冷たく聞こえた。
「どうしてよ! わ……私を、兄に会わせるわけ!? そして、『あなたを売ったのは妹のカタリナです』とでも言うつもりなの?」
「そうではない。フランツ=ゴドセヴィーナをおびき出すためには、あなたをおとりにするのが一番いいからです」
「おとり……?」
「昼と同じように、あなたは修道院の門をたたき、院長へ面会を申し込む。院長が出てきたら、あなたは『兄を出すように』と院長に詰め寄る。院長はまた必死でごまかすでしょう。あなたは諦めて帰るふりをする。なんなら、『明日は憲兵と一緒に来る』とでも言えばいい。そうすれば院長は、あなたの兄のところへすぐさま走り、ここから逃げるように言うでしょう。そうすればフランツは敷地の外へ出てくるはずです」
どうです? というようにレヴィンが私の顔を見る。月明かりが彼の顔を照らしている。
私は涼しげな表情に見えるその顔を、唇をふるわせながら眺めていた。
「そりゃ、なかなかいい作戦ですね、執務補佐官。少なくとも、俺が女装して修道院に忍び込む……とかより百倍いいな。そうしろって言われそうで内心戦々恐々としてたんですが」
ベリスはレヴィンの作戦をのんきに賞賛している。
「私だけ修道院に入って、あなたたちは外で待ち構えているだけなの?」
私は震える唇で息も絶え絶えに言った。
「それでも男?」
「女子修道院には、男は入れませんよ。普通は」
レヴィンは肩をすくめてみせる。私はその顔を憎たらしく思い、思わず睨みつけてしまった。
2012 / 10 / 12. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 9

──真夜中の修道院。
私はどこにも鍵がかかってないのをいいことに、院長室にまっすぐに向かった。人けのない修道院は昼間よりもさらに静まり返っていて、静かだった。そして、まっくらだった。
院長室の場所は分かっている。
だからまっすぐにここへ来た。
扉の下からうっすらと明かりが漏れているのを見たとき、私の確信はたしかなものになった。
あの院長がこんな時間まで仕事をするはずがない……。誰かいるのだ!
扉にそっと足音を忍ばせて近寄り、耳を当てる。
そして、中から人の声のようなものが聞こえるのをたしかめた。
すると、かっと頭が熱くなるような気がした。フランツが今まで私にしたことの数々を思い出さずにいられなかった。あのおぞましい行為がこの瞬間にも、この部屋のなかで行われているかもしれないと思うと、鳥肌が立った。
──神よ! どうか私をお守りください。悪魔の手から!
私は敬虔な修道女のように祈った。
そして、勢いよく扉の取っ手を掴み、それを押し広げた。
「誰です──」
院長は再び私が現れたのを見て、ぎょっとしたような顔になった。
「カ……カタリナさま!?」
執務机に向かう椅子から激しく立ち上がる。その机のうえには一本の蝋燭があかあかと燃えて、炎を揺らしていた。
私の目は、けれど院長には向かなかった。私の目が向いているのは、執務机のかたわらに置かれたひとりがけの椅子だった。窓に向けられたその椅子には誰かが座っていた。こちらに背を向けて。
うなだれるように背を丸め、両手で頭を抱え込んでいる男。
その髪はぼさぼさに伸びている。
私は息をのんだ。そしてその椅子に足早に近づいた。
「フランツ」
私は男の肩を揺すった。男は顔を上げなかった。
「兄さん!」
私は怒鳴った。ようやくのように男は顔を上げ、肩ごしに私を振り返った。少しだけ。
「何をしに来た」
フランツ──兄の声はひどくしわがれて聞こえた。
「私の目の前から失せろ、カタリナ……」
「その方に触れないでください、カタリナさま」
院長がいつのまにか私の横に来ていて、その手で私の腕をつかんでいた。
「この方を王家に売り渡したのは、あなた。そんな汚らしい手で、触れないでください!」
院長の顔を見る。必死の顔だった。
好いている男を守る、女の顔だった。私よりずっと年上なのに。
私は苛立った。こんなことが今までもなかったわけではない。兄のまわりにはいつもうっすらと女の影がちらついていた。ひとつやふたつの影ではない。いくつもの不気味な影だ。
私は兄にとっては特別な人間だった。そう思っていたから昔は気にしなかったけれど、知らないわけではなかった。この人はいつもこうなのだ。どこの誰ともしれない女に頼られ、あるいは助けられ、守られていた。
どこがいいの、この人の?
自分のことも棚に上げて、私は院長にそう言って詰め寄りそうになった。
「兄さん。あなたは追われる身よ。ここにいてもじきに捕まるわ。……自首して。そうすれば首をはねられずにすむかもしれない」
なんの確信もないまま私は言った。
「死んだって構わない」
兄は自嘲的に笑った。
「私にはもう何もない」
その投げやりな言い方に、また私はカッとなった。
「そんなことを言っていて何になるの? ──死んだって構わないというなら、そうなさったらいかが? ……どうせできないくせに!」
兄はゆらりと立ち上がった。
そして私にゆっくりと向き直った。
落ちくぼんだ暗い目。げっそりとこけた頬。いつもきれいにしてあった頬には無精ひげが生えている。いつも憎たらしいほど自信満々にしている姿しか見たことのなかった私にとって、それは見たこともない兄だった。
私は不覚にも心を揺らした。
──かわいそうな人。そう思ってしまったのだ。
駄目だ、この人に同情するわけにはいかない。外には近衛騎士と執務補佐官が待っている。彼らはもう、憲兵を呼んでいるかもしれないのだ。この修道院が取り囲まれている可能性だってある。私は首を振る。
「もう逃げ場はないわ。ここは目をつけられている。……私はたしかに、あなたを売ったわ。軽蔑するなら、すればいい。でも、私にも言い分はある。何も知らなかった私の人生を、あなたは土足で踏みにじったのよ。それも、自分の野望のためだけに!!」
私は興奮していた。だから涙が流れるのだ。自分にそう言い聞かせる。
これは理不尽な運命に対する怒りだ。同情ではない。悲しみなどでは、もっとない。
「私の人生はあなたのせいでめちゃくちゃになったわ! 普通の恋も、結婚も、あなたのせいで出来なくなった。その責任をあなたは取るのよ、今! 私があなたを売り渡すのはそのためよ。王家のことも、伯爵家のことも、私にはどうだっていい。ただ、私は許せないだけ。自分の目的を果たすために、私を利用し、『愛してる』と偽りの言葉を囁いたあなたが死ぬほど憎いだけよ!!」
兄は私をじっと見つめていた。骸骨のような暗い顔で。
「おまえを王妃にしようとしたのは」
やがて、彼は薄い、血の気のない唇を開いた。
「おまえが私をそうして憎み、離れていくのを感じたからだ。──私なりの復讐だった」
「……な、何を言ってるの」
私は身震いした。後ずさる。
「変なことを言い出さないで。まるで、私のせいで──」
「私はおまえと結婚することはできない。腹違いとはいえ、兄だからだ。だが……おまえを愛していた。しかし結婚できない以上、いつかおまえが離れていくのも分かっていた。つなぎとめる手段はわずかしかない。……私は悩み続けたよ、カタリナ。そして、その私の心の隙間に悪魔がとりついたのだ。その悪魔はこう囁いた……どうしても手に入らないなら、別の手段で支配するしかないのだ、と……」
「やめて」
私は耳を塞ごうとした。
「国王には好いた娘がいるという。その娘がいるかぎり、おまえが王妃になっても、おまえは心から愛されることはないだろうと私は考えた。おまえはその寂しさを埋めようとして、自分から私のところへ戻ってくるかもしれないと、そう考えた」
「う、嘘よ! でたらめよ! 今さらになってそんな言い訳をするの? 卑怯だわ!」
私は金切り声で叫んだ。
「あ、あなたのくだらない野望のためでしょう。ゴドセヴィーナ一族から王妃を出す……それがあなたの悲願だったはずよ!」
「おまえを愛していた。誰よりも」
彼は絶望的な目で私を見つめていた。
「おまえと結ばれたかったのは私だ。国王ではない。……だが、それは叶わない。叶わないものを、思い続けていても仕方がない。私は自分の運命を受け入れるしかなかった。だが、おまえがどこへ行こうとも、おまえを本当に手放すつもりなどなかった。おまえを誰より愛しているのは私だからだ。他には誰もいない」
彼の震える手が私の頬にあてられた。ぞっとするほど冷たい手だった。
「私はあなたを愛してなんか、いない……」
「分かっている。おまえはユリアナも捨てた。私とおまえの子であるユリアナさえも」
「な、何を言うの。ユリアナは私の娘じゃない。お……お母さまの娘よ! 私たちの妹よ、そうでしょ! あなたは……頭がおかしくなったのだわ、フランツ!」
私は激して叫んだ。
「おまえが生んだ娘だ」
彼はかたくなに繰り返す。
「しかし、それもおまえの中ではなかったことになったのだな」
「私に娘などいない。……いない! 私はひとりよ、私の人生には私以外、誰もいないわ!」
私は目をつぶって叫び散らし、やみくもな力で兄の手を振り払って叫んだ。
兄が目を見開く。その唇がだらしなく半開きになる。
何かを言おうとして、言えない、というようなふうだった。
私は嫌悪のあまり身震いしながら身を引いた。
しかし、そのときにはっと気がついた。少し離れたところにある書棚の前に立っていて、茫然とことの成り行きを見守っていただけだった院長が、いつのまにか兄の傍らに来て、その体を支えるようにしていたのを。
そして、その手に、何かナイフの柄のようなものが握られているのを。
「い、院長……あなた……?」
「あなたがいけないのです!」
院長は涙声で叫んだ。兄に向かって。
「わたくしを愛してると仰ったのは嘘だったのですか! これほど長く一緒にいたというのに! 何もかも嘘だったのですか、フランツさま! あなたという方は!」
院長の叫び声のあいだも、兄は微動だにせず、ひたと私の顔を見つめていた。何かを瞼に刻み付けておこうとでもするように。
その半開きの唇から血のようなものが垂れさがり、やがてそれは音を立てて溢れだした。
苦しげにせき込みながら兄がその場に崩れ落ちる。私は茫然と突っ立っていた。
院長はその場から身をひるがえした。
扉が背後で激しい音を立てて開き、足音が駆けさっていくのが聞こえた。
私はその場に力なくひざまずいた。
「に、兄さん……」
気づけば、私は兄の手を取っていた。冷たい、死人のような手を。
兄は私の手を握り返した。強い力だった。
「愛して、いる……カタリ、ナ」
「フランツ……フランツ!」
私は泣きながら彼の体の上に自分の体を伏せた。この人のために泣く理由などなかったはずなのに。涙一滴、もう、この人のためには流すまいと決めたばかりだったのに。
「ひどいわ。今さらそんなことを言うなんて! どうして……どうしてなの。どうして」
「ユリアナ、は、ここに……いる」
彼は伏した私の耳元で言った。そしていっそう強い手で私の手を握りしめた。渾身の力で。
「おまえの娘だ。おまえと、私の……それだけは」
「分かってるわ、フランツ。分かってるわ……!」
私は彼の体の上で、泣きながら頷いた。
「苦しかったの。自分は神に背いているのだと考え続けるのが、苦しくて……耐えられなかったの。そうよ、私はあなたから逃げた。だからあなたは私に復讐しようとしたのね。分かったわ、フランツ。あなたが何をしようとしていたのか……やっと分かったわ!」
「そう、だ」
彼はもう片方の手で私の背中を抱きしめた。絨毯の上に倒れたままの恰好で。
「私は……父上の、息子、ではない」
息も絶え絶えに呟かれた言葉に、私は凍りついた。
わずかに身を起こす。私の体のせいで蝋燭の炎が届かず、彼の顔は影になって見えない。
「私の父、は、母の生家の、使用人だった男、だと……。病床の母が、死ぬ前、私にそう、言った。私が七つのとき、だ。父も、そのことは知らない、と……。本当なのかどうか、私には、分からなかっ……た。母はほどなく亡くなった。私は伯爵家の長男として、育てられ、た……そして父が迎えた後妻が、おまえを、産んだ」
私の体は激しく震えていた。何か言おうとするが、言えない。ただ涙だけが流れた。
「おまえが私を憎んだのも、しかたが、ない……。もっと早く……言おうと。いつも……だが、使用人の子だと、おまえに知られるのが、こわかっ……た。私には、打ち明ける、勇気が……」
兄の声が焦点を失い始めるのを感じた。
「すまな、い……カタリ……ナ」
「フランツ……」
私はかすれ声で言った。
「フランツ! フランツ……!」
溢れる涙で、視界がかすむ。
悔しさで、彼の胸をこぶしで叩く。けれど、その手には力は入らない。
そのまま、私は崩れるように彼の体の上に倒れこんでしまった。
まだ温かいのに。この体は、まだ温かいのに……。
耳元に聞こえていた彼の呼吸が少しずつ小さくなる。
それが途切れるまで、私はそこから動かなかった。動けなかったのだ。
自分の初めての、そして最後の恋が、こんな形で終わりを迎えることになるなんて、思いもしなかった。
神さまはなんて──残酷なのだろう?
私はただ、泣き続けた。声もなく。
2012 / 10 / 13. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 10

駆けつけてきた憲兵たちで、夜中だというのに、聖イローナ女子修道院の中は騒然となった。
前庭や中庭などに、起きだしてきた修道女たちが集まる。みな不安げな顔をして、憲兵の行動を見守っている。
私はまだ院長室の絨毯の上にぼんやりと座り込んでいた。
もう兄の遺体もどこかへ持ち去られてしまったのにだ。
「そろそろ行きましょう」
レヴィンが私に話しかける声が聞こえた。私は振り向かなかった。
「あの人を、どこに連れて行ったの……?」
私はぼんやりと訊いた。レヴィンが答える。
「フランツ=ゴドセヴィーナの遺体は、大教会の墓地に埋葬されるようです。先ほど教会の司祭から許可が下りましたので、葬儀のあとに。……葬儀は明日の午後、それまでは大教会の遺体安置室へ安置されます」
「分かったわ……」
私はよろよろと立ちあがった。けれど、またバランスを崩して倒れかける。
その腕をレヴィンが後ろから掴んだ。
「しっかりなさってください、カタリナ嬢。この修道院に入る前の勢いはどうしたのですか」
「私は愚かだったわ」
私はレヴィンを振り向いて、言った。そして、自分のあまりの愚かさにまた泣きたくなった。
「あなたの願いが叶ったんですよ。そうでしょう?」
レヴィンはしかめつらをして私に言う。
私は頷いた。けれど、その頬には涙が流れ落ちていった。
「叶ったわ。……でも、最初に思ってたのとは違うのよ。違うの……」
「どういう意味でしょうね。……とにかく、ここを出ましょう。修道院はしばらく立ち入り禁止になりますから」
「ええ……」
私はレヴィンの腕に掴まりながら、ようやく歩いた。そして院長室を出る。
「あなたって、どんなことでも知ってるんですって? 執務補佐官?」
「……城や、王家に関することならだいたいは」
まっくらな廊下を歩きながら、レヴィンは肩をすくめたようだ。その気配が腕に伝わった。
「じゃあ、私とフランツがどんな関係だったかは?」
「……さあ?」
レヴィンは淡々と言う。本心なのかどうか分からない。
「ゴドセヴィーナ伯爵家の内情については、そこまで詳しいわけではありませんね」
「なら、もうひとつ教えてあげるわ。……私とフランツは、血がつながってなかったの」
「……そうなのですか?」
今度は意外そうにレヴィンが言った。兄とは違う、冷ややかな響きを帯びた彼の声。
「伯爵家ともなると、さすがにいろいろと複雑なようですね」
「他にもあるのよ、言いたいことは」
「まだあるんですか。……もういいような気がしますが」
レヴィンはいささか食傷気味という感じで言う。私はそれを無視して続けた。
「私、やっぱりあなたのお話し、お断りすることにするわ」
「伯爵令嬢は気紛れだ」
レヴィンは今度ははっきりと肩をすくめた。
「そうよ。カタリナ=ゴドセヴィーナは気紛れなの」
私は頷いた。頬に残ったままの涙のあとに、歩くたびに廊下の夜気が当たって、冷たい。
「やはりあなたには侍女は向いていないようですね。珍しく私も見込み違いをしました」
「そうみたい。……それに、フィアの近くにいたら、あの子が四六時中たれながす“幸せ話”を聞いてなくちゃいけないでしょ。私、そのうちに頭が爆発しそうになるかもしれないから」
「そうですね」
「でも、もう一度フィアに会うつもり。……近いうちに機会を設けてくださらない?」
「今度はお願いですか? 私には、あなたのわがままに付き合う義理などないのですが?」
「せっかくお友達になったのだから、聞いてくださってもいいじゃありませんの」
私はすまして言う。自分が涙声なのを隠すように、明るく。
「お友達になったつもりはありませんが……?」
レヴィンはいささかげんなりしたように言った。
私はその彼の肩に、疲れたように、そっと頭を預けた。


それから一か月後だった。私がフィアの家に行くことができたのは。
レヴィンの予定が空かなかったから、それだけ時間がかかったのだ。でも、おかげで私もずいぶんと気持ちの整理がついた。
季節は十一月になっている。本格的に寒くなってきた。
彼女の家は前と変わらなかった。あのこじんまりとした村の奥にあるままだ。
村までレヴィンに送ってもらい、そこからはひとりで歩いて行った。レヴィンは別の場所に用事があるからと行って、途中で別れた。
木製の扉を叩く。
フィアが出てきて、また喜んで中に入れてくれた。
今日は居間の暖炉には火が入っている。
室内は十分に暖かい。
私は厚手のマントを脱ぎながら訊ねた。
「あの人は?」
「仕事に行ってる」
フィアはマントを受け取り、壁に突き出している木製の器具にそれをかけた。慣れた仕草で。
「あ、お城に?」
「ううん、牛小屋」
「……は?」
私は目を点にした。──なんで国王が牛小屋に?
そういえば以前も、レヴィンが牛小屋がどうとか、言っていたけど……。
「牛でも飼いはじめたの?」
「うん」
「……え?」
「牛飼いだから」
フィアは真面目な顔をして言う。
「………」
私はなんといっていいか分からず、これも、フィアなりの何かの冗談なのだろうと思うことにした。きっと国王は、もう仕事をするのが嫌になってこの村にこもっているのだが、何もしないのも暇だと思い、話の種に牛でも飼って時間を潰しているのだろう。金持ちの道楽みたいなものだ。
「そ、そう……。とにかく、それはいいわ。私はあなたと話したくて来たんだし」
「嬉しいわ。カタリナが何回もわたしを訪ねてきてくれるなんて」
フィアは単純に喜んでいる。
しばらくすると、茶やら、焼き菓子やらをそそくさと運んできてくれた。
私は椅子に座っていた。目の前のテーブルに置かれるそれらをまじまじと見る。
「なんだか……焦げてない?」
「う、ううん、大丈夫。食べられるわ!」
フィアは自信たっぷりに言い切るように言ったが、その顔はやはりばつが悪そうだ。
「もしかして、遠まわしに『帰れ』って言われてる? 焦げた菓子を出されるなんて?」
「違うわ! こ、これが一番焦げてないやつなの! 焦げてるのはみんな自分で食べたもの。それに、味は大丈夫なの! ちょっとはちみつを塗ったら焦げちゃっただけ!」
フィアは必死で言う。
フィアが言うのなら、それは本当なのだろう。焦げたものは自分で食べたのだろう。と私は思い、しかたなく、「ありがたく、受け取っておくわ。気持ちだけ」と言った。そして焼き菓子の鉢を指先で遠くに押しやった。
フィアはショックを受けたような顔をしたが、私はそれを無視した。
「それで、さっそくだけど……あなたに相談があるのよ、フィア」
「相談って?」
フィアは驚いたように目を丸くしたあと、私に向き直る。
細い膝をそろえて、さりげなくスカートの裾まで指先で直したその手つきは、どきりとするほど優雅で女らしかった。無意識にやっているのだろう。わざとらしさもない。
改めてその顔を見れば、以前よりずっときれいになっていた。
私はどうしてこのあいだ気づかなかったのだろうとびっくりして目を瞬いた。
顔立ちがすごく美人というわけではもちろんないのだが、顔の雰囲気がいっそう明るくなり、栄養状態もいいらしく血色もいいので、頬が薔薇色に染まっているのだ。それに、仕草のひとつひとつが柔和になっていて、女というものは、やはり男ができると見違えるようになるのだ、と思わされてしまった。──たとえ、あの貧相だったフィアであっても!
「あなたって……かわいく、なったわね……なんだか」
「えっ」
フィアはぎょっとしたような顔になった。
「ずいぶん女らしくなったじゃない。……羨ましいわ。私、あんまり女らしくはないから」
「そ、相談って……そのこと……?」
「は!? ち、違うわよ!! お、思い上がらないで! 私のほうが美人よ!」
私は焦るあまり、支離滅裂なことを叫んでしまった。そして恥ずかしくなった。
「別にあなたに、女らしくなる方法を聞きに来たわけじゃないわよ! 誤解しないで!」
「わ、分かってるわ、カタリナ! いきなり変なこと言うから、びっくりしただけよ!」
フィアのほうも慌てたように言う。
お互いに妙な具合に慌てたあと、息を整えるために茶を飲んだ。ふたりとも。
「……それで、相談なんだけど」
「う、うん」
フィアも、今度はまじめに聞こうと、私のほうに少し身を乗り出す。
「いきなりこんなこと言って、驚くかもしれないけど」
私は咳払いして、切り出した。
「うん?」
「聖イローナ女子修道院、知ってるでしょう?」
「うん。知ってるわ、もちろん」
「あそこが、欲しいの。……なんとかならない? あなたの力で」
私は真面目な顔でフィアを見た。
フィアは「えっ」と呟くと、それきり、絶句してしまった。
2012 / 10 / 14. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 11

当然というべきか、「ええ、いいわよ!」などとは言われなかったので、私はそのあと、フィアに事情を話すことにした。
フィアが知らない、ゴドセヴィーナ家の簡単な事情。銀の横流しや、伯爵家がなくなったこと。貴族会議から、私は聖イローナに幽閉されると決まりかけていたこと。──フィアの侍女になる話はしなかった。それは黙っていた。もう流れた話だし、言う必要はないだろう。
それから、兄のフランツが事故で死んだこと。
彼との関係。彼とは血がつながっていなかったこと。
彼とのあいだに娘がいること。その娘が最近、聖イローナの孤児院に預けられていたこと。
──最初は、そこまで話すつもりはなかった。
でも、話すうちに、自分でも涙がこみあげてきて、洗いざらい喋らずにはいられなくなった。
フィアも、途中から涙ぐみはじめた。
フランツの最後の言葉を話すと、しまいにはフィアのほうがひどく泣いていたほどだ。
「し……知らなかったわ! そんな悲しいことがあったなんて……」
フィアは真っ赤な目をして、子供のように泣きじゃくりながら言った。
「な、なんであなたまで、そんなに泣くのよ! もらい泣きするじゃないの!」
私も泣きながら言った。
「違うわ、わたしがもらい泣きしてるの! カタリナの!」
フィアが泣きながら言い返してくる。
「あ、そ、そう!」
私も胸をひきつらせながら言う。
ふたりして泣いていてもしょうがないので、外に顔を洗いに行くことになった。
近くに井戸があるらしい。
外は陽光があふれ、空は青く澄んで、すがすがしいような天気だった。


井戸のそばの草むらに座った。
人けのない場所だ。村には井戸がいくつかあり、ここへ来る人は少ないという。
たしかに、村からは少し離れた場所だ。
フィアの家の裏手に林があり、その林を抜けた先の、小さな広場のような場所に井戸がある。
「そういう事情なら、カタリナが聖イローナが欲しいって言ったのも、分かる気はする。……でも、欲しいって、どうするの?」
フィアは若草色の瞳で、じっと私を見る。
でも泣いたあとの熱っぽさが、まだその目には残っていた。かすかに潤んでいる。
私も草の上に座っている。そして、木立の上の空をなんとなく見上げた。
「聖イローナの院長は解任になったわ。行方も分からないし。……兄を刺し殺したんだもの、解任になるのは当然よ。でも、院長は聖イローナの新しいパトロンを探していたの。その話も、こんなことになって、みんな破談になってしまったようなの」
「そうなると、どうなるの?」
「聖イローナに資金援助をしていたのは兄よ。その資金が止まったら、修道院と孤児院の運営がたちゆかなくなる。ただでさえ、聖イローナはいろんなことに手を広げていたから──兄の方針がそうだったからだと思うけど──毎月すごくお金がかかるようになっているの。いくつか大口の寄付があったから、この半年はなんとかやっていけていたけど、それも途絶えて、もう限界なんですって。もう今月にも、修道女たちの食べるものもなくなりそうだっていう話だったわ。もちろん、孤児院のほうも」
「聖イローナには、聖ドロテアの孤児院の子供たちが行ってるから、人数も増えているものね」
フィアは頷いた。
「そうなのよ……あ、シスター・マルギットがあなたのことを話してらしたわ」
「本当? 懐かしいわ、シスター・マルギット! 孤児院では、ほんとによくしてもらったの。いつもおいしい焼き菓子を貰ったりとかして……」
「……何か違う気はするけど、いいわ。彼女、あなたが死んじゃったんだとまだ思ってるみたいよ。シスター・エミリアのいたずらのせいで」
「……えっ!」
フィアは絶句した。
「そ、そういえば、シスター・マルギットには何も挨拶してないし……。王都を出るとき」
「あなたって、なんで王都を出て行ったの?」
「あ、それは……あの、伯母さんが修道院に来たからよ。だから、伯母さんと暮らそうと思って」
「ふうん。でも、別に王都を出ることなかったと思うけど」
「う、うん……」
「何よ、水くさいわね。私は自分のことを洗いざらいあなたに話したのよ。他の誰にも話してなかったような、ものすごく私的な、言いにくいことまで! それなのに、自分はすまして黙ってるつもり? 友だちがいがない人ね」
私がちょっと気分を害して言ってやると、フィアは困っていたが、やがて、
「あの……レヴィンさん、知ってるでしょ?」
と小声で言った。
私は「ええ」と頷いた。
「あの人に言われたの」
フィアは、こんなことを言っていいのか、というように指先をまごつかせながら話す。
「なんて?」
私は身を乗り出した。
「ヴィクターさんはクリステラさんと結婚するし、私は王都にいないほうがいいって……」
「……ああ、なるほどね? 要するに、厄介払いされてしまったってわけ。みんなが、あなたはまるで夜逃げするみたいに出て行ったっていうし、私も朝起きたらあなたがいなかったから、どうしたのかとは思っていたけど」
「お金をくれて、それで……王都を出て、別のところで、伯母さんと暮らすことになったの」
「まあ! あの人も、やっぱり相当腹黒いわね。裏でそんなことをしていたなんて」
私は納得して頷いた。一年後に「あなたって、やっぱりいい人ね」と言う確率がまた下がる。
「それなのに、どうしてまた再会することになったのよ?」
「ヴィクターさんと?」
「他に誰がいるの? もちろん、そうよ」
「えっと……。あの、なんていうか……」
「もじもじしないで言いなさい、早く」
「南のほうの街にいたんだけど、あの人がそこまで来て」
「……まあ!」
私は口元に手をやった。
「そのときわたし、別の人と婚約してたんだけど……」
「……えっ、あなた、他の人とも婚約してたの!? 国王陛下と付き合いながら!?」
「ち、違うわよ。その人とは、その街で婚約したの。だけど、なんでか、その婚約者の人とヴィクターさんが槍試合をすることになって、それにヴィクターさんが勝っちゃって、それで婚約はだめになって、そしたら……えっと、盗賊にさらわれて……」
「え、なんでいきなり盗賊にさらわれるの……?」
私は唖然とした。
「話が飛んだわよ、今」
「と、飛んでないわ。槍試合のあとに、盗賊にさらわれたんだもの。その晩に」
フィアはまごまごしながら言う。私は呆れた。
「あなたって、よくよく災難に恵まれているのね」
「ヴィクターさんはわたしのこと、“疫病神”って呼んでたわ……前」
「“疫病神”って言いながらあなたと結婚を? ……やっぱりすごく変わってるわね、あの人」
私は自分の国の国王が、ますますわけのわからない人物像になっていくのを感じた。
「責任を感じてるのよ、たぶん……」
「え、こ……子供がいるの!?」
私はぎょっとしてフィアの腹を見た。しかしぺたんこだ。
「ええ!? ……ま、まだだけど! どうしてそんなこと言うの?」
フィアは慌てふためいたように言う。
「どうしてって、『責任』っていうから。子供ができた責任をとって結婚するのかと思って」
「こ、子供は、当分先よ。大教会に行って、聖母さまのお祈り札をもらってこないと、いけないから……わたし、まだ行ってないもの。だから、欲しいけど、できないと思う」
「……?」
「も、もういい? わたしの話は?」
フィアは自分の話を打ち切りたい様子だ。私はまだ聞きたいことがあったが、とりあえず頷く。
「と、とにかく、シスター・マルギットには手紙を出しておくから」
「そうね。別にそうしろとは言わないけど、したいなら、そうすれば?」
「それで……問題は、聖イローナのことだわ」
フィアはにわかに真剣な顔つきになって言った。
「そうね」
私も頷いた。フィアがその話を覚えていてよかったと思いながら。
「カタリナはどうしたいの?」
「聖イローナの院長になりたいのよ。……無理かしら?」
「どうして、院長になりたいの? 修道女になるだけじゃ、駄目なの?」
「だって、聖イローナは傾きそうなのよ。誰かが支えなきゃいけないわ」
「でも、いきなり外から来た人が『院長になる』って言ったら、聖イローナのシスターたちも、まごつくと思うの」
「……それは、もっともね」
私は驚きながら頷いた。
「最近、頭まで賢くなってきたみたいね、フィア」
「そ、そう? 読み書きとか、いろいろ勉強してるから……」
「あなたが勉強するなんて青天の霹靂だわ。修道院でも居眠りばっかりしてたのに……」
「居眠りしたくても、するとどつかれるから、できないの……」
「どつかれる……」
「最初は、ふつうに修道女として聖イローナへ行けば? 院長選は、たぶん、時間がかかると思うの。聖ドロテアのときも、院長がいなくなったあと、次の院長が決まらなくて、ずいぶん揉めたでしょ?」
「そうね。それで結局、副院長が院長代理になって……」
「あのときシスター・カレンが言ってたんだけど、教会の許可が出ないと、院長になれないんですって。それで、副院長は、すぐに院長にはならなかった……なれなかったみたい」
「シスター・カレンって、いまは副院長になってるらしいわよ」
「えっ、ほんと!?」
「副院長が院長になって、空いた副院長にシスター・カレンが昇格したみたい」
「シスター・レオノーラは? 修練長の……」
「修練長のままがいいって言ったんですって」
「ふうん、そうだったんだ! シスター・カレンなら、いい副院長になりそう」
「だったら、私だって聖イローナの院長くらいできるわ」
私は唇を尖らせた。
「カタリナは駄目よ……」
フィアは困ったような顔で言う。
「どうしてよ」
「だから、さっきも言ったじゃない! 聖イローナの修道女でもないのに、いきなり院長になっても、みんながおかしく思うって。それに、シスター・カレンだって、院長にはなれなかったと思うわ。二十代で院長になる人なんていないもの」
「私はその記録を破ってみたいのよ、フィア。最年少で院長になりたいの」
「どうしても院長じゃなきゃだめなの?」
フィアはさすがに呆れたように私を見た。
私は少し口ごもった。
──別に、どうしても、というわけではない。ただ、聖イローナが知らない人の手に渡り、自分の思うようにならないふうにされてしまうのが、いやな気がするだけだ。
あの修道院は、兄が……フランツが買ったものだ。彼はたしかに偽善者だったけど、でも、彼がやったことで救われた人も王都のどこかにはいるはずなのだ。シスター・マルギットだって、聖イローナにはよくしてもらっていると言って、満足していたのだから。
それに、孤児院には娘のユリアナがいる。
「ユリアナは、私の娘よ。……娘が孤児院にいるのよ。つらい暮らしはさせたくないわ。私は自分は母親だとは名乗りだせないけど、身内として、あの子にできるかぎりのことをしてあげたいの。院長になれば、孤児院の経営も、他人任せにせずにすむでしょう」
「それは、分かるわ」
フィアは頷いた。そして、私の手を取ってぎゅっと握った。
「でも、カタリナ……あの、気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」
「何よ」
私はムッとしてフィアを見る。フィアはひるんだようだったが、話し続ける。
「孤児院にいる子は、その子だけじゃないでしょ。院長になるんだったら、どの子にも、平等に接しないといけないわ。でもカタリナは、院長になったとき、それが出来る? その子だけ特別扱いしないように……」
「………」
私は黙り込んだ。
正直、そのことは考えていなかった。
ユリアナのために何かしてやろうという一心だったのだ。フランツと、ユリアナのために、自分にできるかぎりのことをしようと……。
「娘に精一杯のことをしてやろうと思うのが、いけないことなの?」
私は唇を噛んで言った。フィアは首を振った。
「いけなくないわ! ……でも、それなら、他の方法だってあると思う」
「他の方法って、何よ! 娘は孤児院にいるのよ! 私に何ができるの!?」
「ユリアナさんを、孤児院から連れ出せば?」
フィアは慎重な口ぶりで私に訊ねる。
私は面食らった。考えてもみなかった。そんなこと。
「ど、どうやって連れ出すのよ」
「普通に、連れ出せばいいじゃない。だって、カタリナがお母さんなんでしょ」
「私は戸籍上は姉ということになっているのよ。ユリアナが生まれてすぐに私は領地を出て、王都に来て、聖ドロテアに入ったわ。それから五年……六年、私はあの子の顔を見ずにきたのよ。あの子がどうしてるかは、フランツが時々手紙に書いてよこしてたけど、それしか知らないのよ。それで、どうやって母親だなんて名乗るの? ……とても無理だわ!」
「でも……」
「分かるわよ、あなたの言うとおりにするのが一番いいって。でも、無理よ。私は母親だとは名乗れない。父親が誰かを説明することもできないのに。それに、その父親はもう死んだのよ。打ち明けたって誰も幸せにならないわ。それより私は、修道女として、あの修道院で、あの子が育つのを見守りたいの。そして、兄が……フランツが遺した修道院を、私が引き継ぎたいの」
フィアはしばらく黙っていた。
「……分かったわ」
ついに彼女は頷いた。深く。
「そこまで言うなら、なんとかできないか、聞いてみる」
「……そうよ。はじめから、そう言ってよ。あなたなら、たくさん人脈があるんだから」
「でも、子供は母親と一緒にいるのが一番いいと思うわ。もしユリアナさんを連れて修道院を出るつもりがあるなら、わたし、カタリナとユリアナさんのために、自分にできることならなんだってやるわ。この村には誰も住んでない空き家だってあるし」
フィアは力強く私の手を握る。
私は不覚にも少し感動した。
「あなたって……意外に、面倒見いいところがあるのね」
「わたしは孤児院で育ったの。……ご飯を食べさせてもらって、ありがたいと思ってる。でも、あそこが本当に好きなわけじゃなかった。誰かが迎えに来てくれるって、ずっと信じてた。だから、カタリナには、ユリアナさんを迎えに行ってあげてほしいと、本当は思うの……」
フィアの言葉に、私は何も言わなかった。
──そうか。フィアは、孤児だったっけ。
その事実を知ったとき、私はぐずの新入りをいじめる格好のネタが出来たと内心で喜んだ。でも、自分の娘が孤児院に入ることになるなんて、そのときの私は、思ってもいなかったのだ。伯爵家の末娘として、何不自由なく育つと思っていたのに……。
これは──あのときの、罰なのだろうか。
自分で、そう思った。
2012 / 10 / 15. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 12

その晩は、私はフィアの家に泊まった。
例のお方は、それについては別に何も言わなかった。ただ、私とフィアが食事をすませたような夜遅くに戻ってきて、私が泊まるという話をフィアから聞き、「そうか」と言っただけだった。
「食事は?」
「仕事場で済ませた」
「またあなたの分が残っちゃった……」
「明日の昼に食べる。明日は休みにした」
「そうなの?」
「牛小屋の床が抜けたから、大工を呼んで修繕することになった。一日かかるらしい」
「ふうん」
そんなやりとりのあと、彼は風呂場へ行った。あらかじめ湯が沸かして用意してあったのは、フィアらしくない機転と言うか、彼女も人と暮らすようになって変わったというべきか……。
私とフィアはとうに湯あみを済ませていた。
そして、彼が入浴しているあいだに、そそくさと二人で二階へ上がった。風呂上がりに素っ裸で出てきたのとバッタリ出くわすなんてことになったら、困る。……そんなことはないと思うけど。
「どっちがあなたのベッド?」
「こっち」
「じゃ、そこに寝させてもらっていい? あなたのベッドに」
「うん」
「……国王陛下を居間の長椅子に寝させるなんて、そんなことさせていいのかしら?」
私は少し不安に思いながら訊ねた。
「それでいいって言ってたから、いいと思う」
フィアはあっけらかんとしたものだ。
真新しいシーツを敷きながら言う。
「できたわ」
言われて、私はフィアのベッドに腰掛けた。そして、さっそくのようにばたりと横になった。
「……なんだかいいにおいがする」
私は枕元に鼻を押し当てて言った。
フィアは向こうのベッドのシーツを直しながら慌てたように振り返った。
「……へ、変なことしないでくれる? カタリナ?」
「だって、するんだもの。お花みたいなにおいが」
「香水のにおいだと思うわ……。洗濯して干したあとに、村の人に貰ったのを使ってるの。いま、村で香水作るのが流行ってて……」
「優雅な暮らしをなさってるのねえ」
「村の生活は楽しいわ。みんなで誰かの誕生日をお祝いしたり、刺繍の会をやったり……」
「あなたの結婚式ももうすぐね」
「まだだいぶ先だけど」
「冬なんて、すぐに終わっちゃうわよ。いつだってそうよ」
「でも、冬も好きなの。そんなに早く終わってほしくない。やりたいこといっぱいあるの」
フィアの言葉に、私はちょっと笑った。
「結婚式が待ちきれないっていうより、もう少し先に延びてもいいのにっていう口ぶりね」
「……ちょっと、怖いのかも」
フィアは向こうのベッドに新しいシーツを敷くと、そのうえに座りながら言った。
「結婚するのが?」
「……うん。そうしたら、何か変わってしまうのかなって」
「変わらないと思うけど?」
私はうつぶせになり、枕のわきに両腕を伸ばしながらフィアを見た。
「いまだって、ほとんど夫婦にしか見えないわよ。あなたたちって」
「……そう?」
「ええ。王都の街なかに住んでるような夫婦」
「そ、それならいいけど。……よくわからないの、結婚するってどういうことなのか」
「楽しみにしてればいいじゃないの。どうせそのときは来るんだし」
「そ、そうね。カタリナの言うとおりだわ」
「私はあなたが羨ましいわ、フィア。だって、私は結婚式なんてものに縁がなかったから」
「……うん」
「結婚式まで貞節は守りなさいよ」
「……う、うん……」
フィアはものすごく口ごもりながら頷いた。私はちょっと目を細めた。
「嘘よ。……無理よね」
「え? う、うーん……」
「だって、同じ家に住んでるんだし」
「な、なんか、恥ずかしいけど。こんな話」
フィアは「やめてほしい」というようにもじもじとしている。
「いいじゃない。女同士、たまにはそういう話で盛り上がりましょうよ? ……というより、あなたとそんな話をすることになるなんて思ってもみなかったけど、私も他に話す人もいないし、そこは妥協はするわ」
「ひ、人に話すことじゃないと思うわ。こういうのは……!」
「村の女の人とも話さないの?」
「は、話さないに決まってるでしょ!」
フィアは赤い顔でまくしたてる。
「それじゃ、村の社交界に出遅れるわよ」
「そ、そんなのないわ。社交界なんて! それに、他の人だって喋ってないわ」
「あなたがいないところでワイワイ喋ってるのよ。きっとそうよ」
「嘘! こ、こういうことは人にぺらぺら言うものじゃない……と思うわ!」
フィアは相変わらず必死で力説してくる。私は苦笑した。
「もう修道女でもないのに、変にお堅いのね」
「し、修道女じゃなくなっても、ふしだらにならないようにしないといけないと思う」
「結婚前に貞節じゃなくなってるあなたが言うことじゃないと思うわ、フィア」
「………」
フィアは赤い顔で黙り込んだ。
私はそれ以上フィアをいじめるのをやめることにした。どうせ、その貞節の誓いを台無しにしたのは、男のほうに決まっているのだ。フィアが自分で「そうしてくれ」と迫るなんて、考えられない。……ありえない。
「さっき、お風呂で髪を洗いながら考えたんだけど……」
「……うん?」
フィアはようやく話が変わってほっとしたという顔だ。
「やっぱり、あなたの言うとおりかも、と思って……」
「聖イローナのこと?」
「ええ。私はやっぱり、聖イローナの院長にはなれないと思ったの。……兄が死んだあの部屋で、椅子に座って仕事をすると思ったら、ふいにぞっと心が寒くなって……。だから孤児院のほうで修道女として働かせてもらえないかと思ったのだけど、ユリアナを他の子と同じように育てるのは、私には出来ないかもしれない。……出来ないと思うの」
私が言うと、フィアは頷いた。
「あなたの娘なんだもの。特別にしたくなるのは、当たり前だと思うわ」
「ユリアナを連れて出ようと思うわ」
私はごろりと仰向けになり、おなかのところに両手を当て、天井を眺めた。睨むように。
「たぶん、あの子はまだ小さいし、戸籍上は自分が妹だということも、分からないと思うのよね。だから、今のうちに本当のことを……私が母親だと打ち明けて、大きくなったら、いつか、父親のことも話してきかせるつもり」
「うん……。わたしは、それがいいと思う」
フィアはベッドのふちに腰掛けたままうなずく。
「受け入れてくれるか分からない。……今から怖いけど。だって、いいことばかりじゃないもの。伯爵家は取り潰しになったのだし……」
「やり直せるわ。きっと」
フィアは言った。
私は首を少し動かして彼女を見た。少し疑心暗鬼の顔で。
「本当に、やり直せるかしら?」
そうだと言って欲しかった。
そして、フィアは言うだろう。
「やり直せるわ。わたしは、カタリナなら出来るって信じてる」
微笑んでそう言った彼女を、私も微笑んで見つめ返した。そして目を閉じた。


翌日の朝、王城へ戻った。またレヴィンに迎えに来てもらってだ。
「二転三転して悪いんだけど、やっぱり、侍女の件をお引き受けしたいの」
私は馬車の中で彼に言った。しかし彼は、
「あなたはいささか気紛れすぎる。却下です」
と冷ややかに言った。
私はふてくされた。
「何よ、ケチ! せっかくいろいろと考えて覚悟を決めたのに!」
「一度引き受けたものから逃げた人は、また逃げます。それでは困る」
「今度こそ本気よ! 私、生活がかかってるの。娘との生活がよ。本当にお願い」
「もう次の人選に入っていますから、無理です」
レヴィンはとりつくしまもない。
私は黙り込んだ。
「次期王妃の身近な人を侍女にしようと思いましたが、思い直しました。それでは甘くなる。教育から礼儀からきっちりと仕込んでくれる、厳しい人間を侍女に迎えようと思っています」
「王妃らしくするために?」
私はむっとしたままま訊いた。前を向いてだ。
隣に座るレヴィンは、「そうです」と言う。
私はふんっ、と鼻息を吹いた。せっかくの好条件の仕事を捨てる羽目になってしまい、悔し紛れだ。
「あの子に王妃教育なんて、本当に必要なのかしら? 頭は見違えるくらい賢くなってきてるみたいだし、侯爵家から嫁いだ母を持つ私から見ても、あの子の言動や挙措に見苦しいところはなかったわ。……まあ、焼き菓子は焦げてましたけど」
「あなたから合格がいただけるとはね」
レヴィンも呆れたように言う。私が悔し紛れに言っているのが分かっているのだろう。
「しかし、王妃とはそんな甘いものではないのですよ。少しでも粗があれば叩かれる」
「あの子は王妃よ。もう、そうだったわ」
私は窓の外を眺めて言った。心のなかでは、どうやって次の職を見つけようかと考えながら。
「ほう。……王妃でしたか」
レヴィンは意外だったのか、妙に感慨深そうに言った。
「ええ。同居してる方が、案外きっちりと仕込んでらっしゃるようね。……料理以外」
「何も仰らないから、半年は城での教育期間が必要だと思っていたんだが……。そうか。それなら、村を出るころには人前に出せるようになっているということか。だとすると外交の日程を大幅に……」
レヴィンはぶつぶつと言っている。
「……あーあ。残念。娘を抱えて、職探しに走らないといけないなんて。世の中ってせちがらいわね」
「そんなものですよ。庶民の生活は」
「庶民って言わないでよ」
「庶民でしょう。伯爵家はもうないのですから」
レヴィンは鼻で笑う。
「……そうだけど!」
私はますますムッとした。それきり、レヴィンとも話さなかった。


とは言っても、実のところ、職探しは憂鬱なものだ。
最初はどこかに侍女のような仕事がないかと思ったが、ゴドセヴィーナ伯爵家の令嬢を侍女にとろうという貴族などいなかった。最初は好意的には話を聞いてくれていても、詳しく出自を訊ねられ、仕方なく話すと、その伯爵家とは関わり合いになりたくない、とばかりに追い返された。
そんなことが何回も続いて、さすがにめげてきて、私は何を血迷ったのかクリステラ=エトヴィシュのところまで行ってしまった。しかし彼女は出てこなかった。応対したのは執事だ。
執事は申し訳なさそうに、「我が公爵家では侍女を募集はしておりません」と言う。この申し訳なさそうな態度は表向きのもので、名門貴族にありがちなものだ。後で因縁をつけられたくないからそうするのである。実のところは、早く追い返したくてたまらない。
私は侍女になるのを諦め、次は宿の掃除婦の仕事を探した。
そちらはたくさん求人があった。どこの宿にもそういう張り紙が貼ってある。
『掃除婦募集』。
もう二度としないと誓ったあの仕事に戻らねばならない。しかし、それも生きていくためだ。
私は気を取り直して面接にあたった。
最初の反応はいいのだ。
「あんたみたいな美人が働いてくれるなんて」と言われる。
しかし、「子供を抱えている」というと、とたんに嫌な顔をされた。
「仕事のあいだ、子供はどうするんだね? うちには子供を預かる場所なんかないよ!」。
というわけで、また追い返される。
住み込みで、子供も一緒に住めるところがないかと探すのだが、そんな都合のよいところはない。裕福な貴族の屋敷の使用人であればあるだろうが、そうした仕事はもう人で埋まっている。
一日中足を棒にして探して、だめで、次の日も次の日も同じようにだめなことが続き、私はとうとう挫折した。路地裏のかげに座り込んで涙を拭う。泣きたいわけではないけど、自分がみじめでどうしても涙が出てくるのだ。
これでは、娘を迎えに行くどころではない。仕事がないし、家もないのだから。
職探しのあいだは城にいていい、とレヴィンには言われているが、あの大家はケチで、
「そう長くは猶予しませんよ」
と言っている。早く出て行けということだ。
私は大教会の前の通りに出て、しばらくぼんやりしていた。
この数日間で王都じゅうを歩き回ったけれど、何も成果はない。
道端の石組みのうえにすとんと腰を下ろす。昔ならこんなところに座らないけれど、今は仕方がない。
これからどうしようかしら、と私は考えた。
どうしようもこうも、何もやる気が出てこない。仕事が見つかったら見つかったで、汲々として生活していかなければならないだろう。私はたぶん、そのことで手いっぱいになってしまう。そのうえに、手のかかる年頃に違いない、五歳か六歳の女の子が加わるのだ。
ユリアナのことはかわいい。フランツの最後の話を聞いて、私はなんとしてもあの子を守らなければならないと思った。彼の忘れ形見なのだから……。
けれど、いくら頭で考えていても、体がついていかない。
生活が苦しいのに、私はちゃんとあの子を守ってやれるのだろうか?
実際には仕事が見つからず、そのことで私はもう泣きたいような気持ちなのに。
第一、仕事のあいだ、ユリアナをひとりにするわけにはいかない。だからってあの子のお守りを頼むわけにもいかない。そんなことをしたら生活費がなくなってしまう。
裕福でなければお守りもつけられないのだ……。
私はそんなこともいままで知らなかった。いったい庶民の人たちは、本当に、どうやって生活をやりくりしているのだろう? 働いているあいだ、子供はどうするのだ? 乏しいお金で家賃なども払えるのだろうか?
私は石組みのうえで、しばらくそんなことをぼんやりと考えていた。
そして、なんとかまた立ち上がった。仕事を探す気持ちになったからではない。お腹が空いてきてしまったからだ。しかし私にはお金の持ち合わせはない。
城に戻らなくちゃ、と思った。とりあえず、あそこへ行けば昼食にはありつけるのだ。
──仕事が見つからなかったとレヴィンに言ったらどうだろう?
そうしたら、いくらあの冷血漢の人でも、私を追い出したりしないのでは?
城にいるあいだは衣食住には困らない。そこへユリアナを連れていって……。
自分がどんどん浅ましい人間になるような気がしながら、私は城への道を歩き始めた。
しかし途中で足を止める。
──『店番募集』。張り紙だ。
思わず、張りつくようにして見入ってしまう。
条件は特に書いていない。どんな店かも分からない。
私は一歩さがって店構えをよく見てみた。看板も何もない。なんだか、胡散臭いけど……。
中へ入ろうかどうか迷っていると、突然、
「シスター・カタリナ?」
と誰かに声を掛けられた。
私はぎょっとして振り向いた。
そこに立っていたのはカレンだった。まぎれもなく、彼女だった。
いつものように修道服を着ている。聖ドロテアのものだ。手には何か荷物袋を持っている。
「どうなさったの? こんなところで……」
彼女は私を驚いたように見て言った。
「べ、別に……なんでもないわ! ……失礼します」
私は慌てふためくあまりに、そんなことを言ってその場から逃げ出した。
「待って、シスター・カタリナ! ……シスター・カタリナ!」
カレンが大声で私を呼びとめようとするが、私は走り出して、それを振り切った。
私は路地裏に入って、息を整えた。もうだいぶ走ってしまったから、息が上がっていた。
──びっくりした。
カレンに会うなんて。
でも、考えてみればおかしなことではない。大教会の前の通りは、聖ドロテアの修道女たちは、たまに教会との行事の打ち合わせなどで行ったり来たりしているからだ。カレンのことだから、また炊き出しでも企画しているのかもしれない。
以前は、そんなものに関わり合いになる人の気持ちは分からなかったけど。
こうしてみると、あれのおかげで生きていける人というのも、いるに違いない……。
「みじめなものね……」
私は呟き、今度こそ、また泣きたくなった。
城に戻ろうとする足も止まってしまう。
城に戻ればたしかに私は食事にありつける。でも、ユリアナはそうではない。あの子はまだ孤児院にいる。私には、あの子をそこから出してやれるだけの財力がない……。
私はへたりこみそうになった。石畳の地面の上に。
でも、気力を振り絞って歩き続けた。
城に戻るしかない。とにかく、今はそうするしかない。
侍女でなくても、もしかしたら使用人などで雇ってくれないだろうか? ──そうだ、レヴィンに訊いてみよう。もう、プライドだのなんだのと言っている場合ではない。
私はユリアナを引き取らなければならないのだ。どうしても。
そう決めたのだから、できることはなんだってしよう。
フィアだって言ったではないか。私なら出来る──と。
2012 / 10 / 16. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 13

レヴィンは執務室にいるという。
私はその扉の前にいた。衛兵が私が来たことを彼に告げる。
しばらくして中から声がした。入室の許可だ。
私はいささか緊張した面持ちでレヴィンの前に歩いて行った。
「またお会いしましたね、カタリナ嬢」
いまは同じ城の住人だというのに、レヴィンの言葉はどこか冷ややかだ。
やっぱりこの人は冷たいのだ、と私は改めて思った。私が侍女には向かないと分かったとたんに、これなのだもの。結局、利用できないと思えば、この人にとってその相手は価値のない人間になってしまうらしい。
「また来てしまいましたわ、執務補佐官」
けれど私も、図太くそう答えた。──そう、図太くなくては生きていけないから。
「お話しがありますの。折り入って」
私は息を詰めるようにして言った。背筋を伸ばし、できるだけ、伯爵令嬢の威厳を失わないようにしようと思いながら。
でも、これから切り出すことはとても伯爵令嬢にふさわしいものではない。
城の使用人にしてもらえないか?
娘と一緒に、城のどこでもいいから親子で住まわせてほしい……。
私はこれから、そう切り出さなければならないのだ。
さすがに気が重くはなる。
「ほう」
レヴィンは頷き、執務机から立ち上がった。
「ちょうどよかった、と言うべきでしょうか。……私もあなたにお話しが」
「……え?」
思いがけない返事だ。私は眉をひそめた。
「奥へ行って、そちらにかけてください」
「え、ええ……」
レヴィンに勧められるままに、暖炉の前の応接用の椅子に腰かける。
いったい何を言われるのだろう。
ついに、今日にでも城から出て行けというつもりだろうか?
「あの、仕事はまだ見つかっていないけど、でも……──」
「フランツ=ゴドセヴィーナは、あなたとは血がつながっていないというお話しでしたね」
レヴィンは突然、そんなことを言った。仕事用の、冷ややかな顔つきで。
私は面食らった。
たしかに、その話は彼にした。気が動転していたせいかもしれない。言わなくてもいいことを、つい話してしまったのだ。
誰かに聞いてほしかった。
そのことを知っているのは、この男と、フィアだけだ。
「先日、例の村で陛下と雑談する時間がありまして、その件について話し合いました」
レヴィンの言葉に私は目を見開いた。
「陛下のお考えは、こうでした。──フランツ=ゴドセヴィーナが伯爵家と関係のない人間であったのであれば、今回の一連の騒動の責任は、フランツひとりに帰すことが妥当であると」
私は思わず立ち上がりそうになった。
「違うわ、兄ひとりがしていたことでは……これは、一族がずっと前から!」
レヴィンは頷いた。分かっている、というように。
「……むろん、伯爵もワシュトリアへの銀の横流しを承知していたでしょうし、このことはあなたがご自身で認めるように、伯爵家一族が代々継続して行っていた王家への裏切りではあるのですが、その点は表ざたにしなくてよいと陛下は仰っておいででした。……伯爵家は長年ワシュトリアと領地の境界線を接するなかで、長いあいだ軍事的な緊張にさらされていたのであるから、その緊張関係を緩和させるためにワシュトリアとの裏取引に走ったのも、国境の守りを軽んじて手薄にしてきた王家に一部は責任があるのではないかと」
「……な、何を言っているのか分かりかねますわ」
私は口ごもった。レヴィンが説明したことの半分も理解できなかったからだ。
軍事的な緊張が、……なんですって?
私の頭は毛糸玉のようにこんがらがった。
「つまり、どういうことですの? それは?」
「つまり、ゴドセヴィーナ伯爵家の取り潰しの決定は、撤回されるということです」
レヴィンはおうむ返しにした。子供に言ってきかせるように。
「……取り潰しが、なしになる?」
私は信じられない気持ちで訊ねた。レヴィンは頷いた。
「ええ。……そうです。陛下は、そうなさるおつもりだと」
「そんなことが出来るの? だって……貴族会議は? 私の幽閉を決めた……」
「貴族会議へは、陛下がいずれご臨席なされて、いま私があなたにしたのと同じ説明をご自身でされると思います。上流貴族たちは、陛下のご決定に逆らいはしないでしょう。陛下ご自身が、王家の過ちを認めるというのであれば、誰もそれに異議は唱えません」
「私の一族はずっと王家を裏切ってきたというのに、それが許されるというの?」
私はレヴィンを凝視した。
レヴィンは目を細めた。
「フランツ=ゴドセヴィーナは、その一族の罪を背負って死んだのだ、ということです」
「………」
「真実がどうであるかは、このさい、どうでもいい。私も陛下も、王都を揺るがした醜聞にそろそろ決着をつけたいだけです。そして、フランツの死はその幕引きに相応しい。そう判断したのです。彼は、一族の罪を『死をもって償った』。そういうことにします。この件に関してはあなたの意見をうかがうつもりはありません。もう決まったことですから」
私は何か言おうとしたが、うまく言葉が見つからなかった。
フランツは一族の罪を背負って死んだわけではない。でも、彼がいままで背負ってきたものは、たしかに一族の業だったのではないかと思ったのだ。
ゴドセヴィーナ伯爵家から王妃を出す。その執念のために、彼は自分の人生を半分犠牲にしたようなものだ。彼はそれを、『私が遠ざかっていったから』だと言っていたけれど……。
あの人はたしかに解放されたのだ。あのとき、あらゆる重いものから解放されたのだ……。
「その彼がゴドセヴィーナ伯爵家とは血が繋がっていなかったというのは、皮肉な話ではありますがね。……ともかく、その事実は表ざたになるものではない。事実かどうかも分からないのですから。しかしもしそれが本当であるならば、あなたが伯爵家の次の当主に立つことに対して、反対する理由は何もない、ということになります。つまりあなたは無傷だということです、カタリナ嬢」
私は思わず首を振った。弱々しく。
「私が、無傷ですって?」
「あなたは銀の横流しに加担したわけではない。それを行っていたフランツ=ゴドセヴィーナは伯爵家の人間ではなかった。そういうことになれば、あなたは無傷で、伯爵家当主として立つことができるのですよ」
レヴィンは私を説得するように言う。
私は激しく首を振った。
「そんなことはないわ! 私は知っていた……ずっと前から、伯爵家が銀の横流しをしていたのを知っていたわ! それに、フランツは、血筋はどうであっても──あの人は伯爵家の一員だったわ! あの人ひとりにすべての責任を押しつけて、私が知らん顔で伯爵家を継ぐなんて、そんなことはできない!」
「……私の言い方が悪かったようなので、言いなおしましょう」
レヴィンは私がそう言うのを予見していたように、冷静に言う。
「あなたが今回の件に関わりがなかったこと、あなたが伯爵家の次期当主に立つこと。──この結末を誰より望んでいるのは、墓の下のフランツ=ゴドセヴィーナその人であろう、ということです」
「………」
私は自分の激情が冷えていくのを感じた。
そんな言い方はずるい。
フランツが、そう望んでいるはずだ、なんて。
そう言われたら、私には何も言えなくなる。
「なりふり構わず職探しをしておられたようですが、はかばかしくはなかったでしょう?」
「……なんでも知っているのね、本当に」
私は唇を歪めた。
「貴族階級の近衛騎士が教えてくれたのですよ。あなたが侍女の面接に来たとね」
「悲しいくらいに筒抜けだわ、何もかも」
「あなたと娘さんが路頭に迷うことを、フランツ=ゴドセヴィーナが望むと思いますか?」
レヴィンは私を見つめて言った。
「……望まないでしょうね」
売り言葉に買い言葉のような感じで、私はレヴィンの言葉に答えている。
実際、そうだろう。もし彼がここにいたら、私に言うだろう。「カタリナ、受けなさい」と。
「伯爵家は存続。それが、陛下の最終的なご決定です。そして、存続するからには当主が必要だ。しかしあなたの父上は、銀の横流しに直接関わっており、すでに当主たる資格を失っている。新しい当主に一番ふさわしいのはあなたであり、そして、あなた以外には誰もいません。あなたはその資格を有するただひとりの人間になったのです、カタリナ=ゴドセヴィーナ」
私は黙っていた。
ずっと、長いあいだ黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……フィアが何か言ったのでしょうね? そうでなければ……国王陛下がそこまでしてくださることはなかったはずよ」
私はあの子に言った。あなたの人脈を使ってなんとかしてくれと。
そしてフィアは、そうしたのだ。同じ屋根の下にいる人に、私の窮地を救うように嘆願したに違いない。
「さあ、それは私は存じませんが」
レヴィンは肩をすくめる。
「たとえ彼女が何を言ったとしても、陛下は、ご自身で正しいと思ったことしか選択されません。そういう方ですので。もしご自身が納得なされなければ、誰からの意見であったとしても、きっぱりと退けられるでしょう」
「陛下のご決定だと信じてもいいわけね。フィアに頼まれたから、いやいやそうするのではなくて……」
レヴィンは頷いた。
「むろんですよ。あの方はご自分で決定されたことは、ご自分で責任をおとりになられますから、あなたがこれからすることに対しても、その責任を負っていかれるでしょう。あなたは陛下を後見人として得られたようなものです。これからは一層、言動に気をつけてください。そうでなければ、あなたを伯爵家当主に据えるとお決めになった国王陛下の顔に泥を塗ることになる」
「……分かりました」
私はついに頷いた。
「私は自分が無傷だとは、今も思っていませんわ。ですから、私にその立場が相応しいかどうか分かりませんけれど、ゴドセヴィーナ伯爵家の汚名を雪ぐことができるよう、精一杯、できるかぎりのことをしていきたいと思います」
私の口上をレヴィンは黙って聞いていた。
「……こんなところでよろしいかしら?」
私は沈黙に耐え兼ねて彼に訊いた。
「まあ、そんなところでしょうね。カタリナ嬢。……どうせ、あなたはそのうちに好き勝手なことを始めるとは思いますが。陛下が決められたことですから、私にはもう何も言えませんよ」
レヴィンの言葉はやっぱり的確だった。
「一応、止めはしたんですがね。あの伯爵令嬢は気が強くて、とても手におえない人だ、と」
「これからは自制しますわ。娘の手本にならないといけませんもの」
私はすまして言った。
「あなたはまだ母親の顔ではないんですがね……。せいぜい、期待していますよ」
レヴィンはまったく期待していないような顔で言った。私は彼に舌をだし、睨んでやった。
2012 / 10 / 17. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 14

「……だからって、どうしてわたしまで一緒に入らなくちゃいけないの? 修道院に?」
──あれから一か月以上が過ぎ。
十二月、厳寒の王都である。冬が厳しい最中で、隣に立つフィアはいささか機嫌が悪い。
私がフィアの村に手紙を出し、「お願いだからついてきて!」と頼み込んであったのが、やっと今日になって実現した。フィアは返事では「すぐに行くわ」などと汚い字で書いて寄越したというのに、今朝になってやっと同居の人に事情を話したらしく、「こんな寒い時期に遠出をするな」と叱られたようで、そのことで何か喧嘩でもしたのか、なんだか目は赤いし、最初からテンションが低かった。
「カタリナがひとりで行けばいいじゃない。ここまでついてきてあげたんだから」
『ついてきてあげた』などと、フィアは高飛車な言葉づかいを隠さない。
たしかに、ついてきてもらってはいる。聖イローナ女子修道院の門前まで来ているのだ。
しかし私も、こうなったら意地だ。
「ここまで来たのに、どうして一緒に中に入ってくれないのよ! あとちょっとじゃない」
「だって、あなたの娘を迎えに行くのよ。わたしがそこにくっついていたら、おかしいわ」
フィアの言い分にはそれなりに筋が通っているが、それでは困る。
私にはまだ、ひとりで娘に会いに行く勇気がない。
「だからって、こんな寒いところにひとりで突っ立ってるつもりなの?」
「つ、突っ立ってるわ。カタリナとユリアナさんが出てくるまで待ってるから」
「風邪ひくわよ。現に、もう鼻水が垂れてるじゃない」
「垂れてない……」
フィアはじゅるる、と鼻水をすすりあげた。
私は彼女の腕を掴んだ。
「あなたに風邪をひかせたら、私があとでなんて言われるか分からないわ! それどころか、また伯爵家が取り潰しになるかも。……とにかく、突っ張ってないで入りなさいよ!」
「……もう!」
フィアは腹を立てたように言ったが、なんとか私が言うままについて来る。その体には分厚いマントがぐるぐる巻いてあり、足には長靴を履いているから、ぱっと見ると子供のような格好だ。そして芋虫にも似ている。
私はその芋虫を引きずって聖イローナの敷地内に入った。ほどなく建物の中にも入る。
修道院には門番などいないし、修道女たちの姿も見えない。がらんとしている。
「祈りの時間なのかしら。人けがないわね」
「孤児院って、ここにあるの?」
フィアは聖イローナに入ったことがないのか、少し珍しそうな顔になってあたりを見ている。
「そうよ。聖ドロテアと違って、聖イローナの孤児院は、敷地の中にあるのよ。奥のほうだけど」
「ふうん……。でも、そのほうがいいかもね」
「私も見たことないの」
「初めて来たの?」
「そうよ」
平然として言う私に、フィアは信じられない、というような顔になった。
「どうしてもっと早く来ないの? ユリアナさんが毎日どんな気持ちであなたを待ってるか!」
「あの子は、誰か迎えに来るなんてことも知らないのよ。それに私だって、仕事を探したりだとかして、いろいろ……その、心の準備も必要だったのよ!」
伯爵家の存続が決まってからは、軍事的なことや、領地などに関する取り決めをした書類にサインをしたりだとか、お父さまや一族あてに手紙を書いたりだとかして、なんだかんだと忙しくて、ここへ来る暇もなかった。それで遅れたのだ。
「そんなことどうだっていいから、一番にここへ来るべきだったのよ!」
フィアは鼻水をすすりながら、妙に感情的になって言ってくる。私は顔をしかめた。
「分かってるわよ、そんなこと! だから、言ってるじゃないの。心の準備が必要だったって!」
「嘘よ。カタリナは、結局臆病なだけなんだわ。だからわたしについてきてって言ったんでしょ。……わたし、こんなことになるなら来なきゃよかった。もっと何か他のことで困ってるのかと思ったら、ただ『ひとりで会うのが怖いから』だなんて!」
「うるさいわね。あなただって、出がけに怒られて機嫌が悪いだけじゃないの!」
「そうよ。ヴィクターさんには怒られるし、あなたはぐずぐずしてるし……ひどい日だわ」
フィアは情けないような、怒ったような声で言っている。
「そんなに怒られたの? ちょっと王都に来るくらいのことで、いちいち過保護すぎるんじゃないの? あなたって、前にいた修道院は山奥にあったんでしょ? 冬に暖房もないような!」
「暖炉なんかなかったし、パンにはいつもカビが生えてたわ。それが普通だと思ってた」
フィアはまた鼻水をすすりながら言う。
「でも、それとこれとは別問題よ……。あの人、私に『護衛をつけろ』って言ってきかなかったの。だから、別に危ないことするわけじゃないし、ひとりで行くって言い張ったんだけど、喧嘩になっちゃって……。歩いてるだけで災難に巻き込まれるくせにとか、さんざん怒られて、悲しくなった……」
「おおげさね。いくらなんでも、歩いてるだけで災難に巻き込まれるわけないじゃないの」
私は呆れてフィアを見たが、良く考えるとこの娘は次期王妃なのだから、護衛くらいつけないと危ないのかもしれない、と思った。
もし何かあってフィアがさらわれたりしたら、本当に、私は牢に入れられ、伯爵家は取り潰しになる……。そう思うとにわかに恐ろしくなってきたので、私はしっかりとフィアの手をつかんだ。
「と、とにかく、離れないでよ! そうしてればいいんだわ。災難に巻き込まれないように!」
「痛いってば、カタリナ!」
ぶつぶつ言うフィアをまた引きずって、私は孤児院のほうへ行った。
聖イローナの孤児院は、修道院と同じような建物で、なかなか立派なものだ。
「聖ドロテアのやつより立派ね」
「う、うん……そうね」
フィアもその建物を見てほっとしたような顔をしている。
孤児院の建物に入る。
廊下を進むと、どこかから子供たちの声がしてきた。どこかの部屋の中で遊んでいるようだ。
私はそこへ行き、扉を開いた。
子供たちの声がひときわ大きくなる。
中は広い空間だ。中庭とほとんどつながっているような空間で、部屋と庭はアーチ状の柱と壁でへだてられて繋がっている。床は石畳で、その上を子供たちが元気に走り回っていた。何か、毛糸玉のような丸いものをいくつも蹴って遊んでいる。
そのうちの何人かが、誰が入ってきたのかと振り返った。
「……あっ、シスター・フィア!」
誰かが叫んだ。そしてまっしぐらに駆けつけてきた。
「シスター・フィアだ!」
「シスター・フィア!」
子供たちが口々に言って集まってくる。部屋にいた子供の半分くらいだ。たぶん聖ドロテアの孤児院にいた子供たちだろう。フィアはその孤児院で子供たちの世話をしていたから──世話をしていたというのか、されていたというのか──顔見知りなのだ。
「何を騒いでいるの? どうしたの?」
騒ぎに気付いたのか、シスター・マルギットが扉の奥から出てきた。そして、フィアに向かって「まあ……!」と叫んで絶句する。このあいだ、フィアが死んだのではないか、と深刻な顔で私に打ち明けてきた修道女だ。
「シスター・フィアではないの!」
彼女はフィアに駆け寄ってきて、その手を取ろうと両手を差し出してきた。フィアはマントを体に巻きつけて芋虫状態になっていたが、その手をゆるめ、マルギットの手を取った。
「本当に、手紙にあったとおりに、元気そうで……」
どうやらフィアはちゃんと手紙を出していたらしい。
「手紙も、本当に書くのが上達しましたね。あなたに字を教えた人間として、嬉しく思いますよ! シスター・フィア!」
つい先日、私あてに送られてきた手紙は、相変わらず汚い字だったけど、それは黙っておく。私が口出しする場面ではないようだからだ。それに、たしかに語彙は増えていたし、文章もおかしくはなかった。字が汚いだけだ。
「あ、ああ……もうシスターと呼んではいけませんね。還俗されたのですものね」
「いいえ、いいんです。シスター・マルギット。そう呼ばれると懐かしくて、嬉しいですから」
フィアは気恥ずかしそうにしながらもそんなことを言っている。
その膝には子供たちが子犬のように飛び跳ねてまとわりついている。よくわからないが、フィアはどうも、子供に好かれるタイプのようだ。私のところには全然来ないのだけれど、なぜだろう。ひとりくらい来てもいいのに……。
私はそんなことを思いながら、子供たちのなかに自分の娘がいるかどうか探していた。しかし、誰がユリアナなのか分からない。私が彼女を見たのはほんの赤ん坊のときだけだから、分からないのも無理はないけど……。
それでも母親なら分かるはずだと思い、目を皿のようにしていると、マルギットがやってきた。
「シスター・カタリナ。……あの、先日は、あんなことになって……」
マルギットは言葉を濁した。
どうやら、聖イローナでのことを言っているようだ。私の兄がここで死んだ。刺したのは院長。院長は行方不明で、兄は教会墓地に埋葬された……。
その事件はまだ私のなかに傷を残してはいる。でも、それほど暗い気持ちではないのだ。なぜか分からないけれど、私は以前よりずっと、すっきりとした気持ちでいた。
最後に真実が分かったせいかもしれない。フランツが命と引き換えにして、ようやく私に打ち明けてくれた真実。
あの言葉が、私の重荷も取り去ってくれたのだ。
実の兄との子供、禁忌の子供……。そう思って、私はユリアナを捨てた。
伯爵家にいたはずのユリアナをここへ呼び寄せたのは兄だろうが、まさか孤児院にいただなんて、知らなかった。
そのことでは、兄は何を考えていたのだろう?
自分はお尋ね者で、領地には戻れない。王都でも、外へ出れば憲兵に見つかる。そんな兄が身を寄せられるのはこの修道院しかなかった。だから、ユリアナを呼び寄せた? どうしても会いたかったから?
どうやって呼び寄せたのか分からないが、伯爵家の末娘が孤児院にいるとは、さすがに憲兵たちにも気づかれなかったのだろう。とにかく、兄はこの修道院に半年ものあいだ身を隠しながら、ユリアナを見守っていたのだ。
かたときも離れていたくなかったのだろうか。
あの人がそんなに、あの子をかわいがっていたなんて。
子供に愛情なんてないという素振りしか、前は見せなかったのに。
結局、不器用な人だったのだろう。私はいまはそう思っている。あの人が生きていたときには憎むことしかできなかったのに、いなくなってから、日増しに私の愛情は強まっている気がする。あの人のめちゃくちゃな人生を、私のなかで、まったく別の物語にすることができるような気がしている……。
いや、これこそが真実の物語だったのだ。
私はあの人のことを、何も知らなかった。本当に、何も知らなかったのだ……。
「こちらの修道院の皆さまには、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「い、いいえ、そんなこと……! あなたの気持ちを思えば……」
マルギットは恐縮したような、申し訳なさそうな顔になっている。
「私も、こちらの運営事情には疎くて……。伯爵家のことも、先日まで存じませんでしたの。ただ、子供たちによくしていただいていたのと、孤児院のほうは何も問題がなかったので、他のことは何ひとつ心配していなかったのです。それが……」
「慈善事業は、兄が心がけていたことのひとつでした。……どんな形であれ、兄の意志がここに引き継がれていると思うと、私も感慨深い気持ちがしますわ。シスター・マルギット」
「え、ええ。本当にそうですわ。あなたのお兄さまには心から感謝しております」
「それで、突然の話なのですが……。別室をお借りしてお話しさせていただいても?」
「どのようなお話しでしょうか? 私が責任者ですから、承りますわ。……あ、子供たちを誰かに」
「わたし、ここで見ています」
フィアが言った。彼女はもう子供たちと遊び始めていた。
「ありがとう、シスター・フィア。すぐに誰かをこちらへ来させるけれど、それまでお願いするわ。ごめんなさいね」
「はい」
フィアが頷く。彼女は、自分のことではひどく危なっかしい感じがするのに、子供のこととなると、何やら頼れる存在のように見えるから不思議なものだ。私はそう思いながらマルギットのあとをついて歩いた。
2012 / 10 / 18. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 15

そこは孤児院の院長室のような場所だった。マルギットがこの部屋の主である。
「それで、お話しというのは……?」
向かい合って応接用の椅子に座りながら、マルギットが改めて切り出してくる。
「ここに、ユリアナという子がいますでしょう?」
「ユリアナ? ……え、ええ。おりますわ」
「彼女を引き取りに来たのですわ、院長」
私は改まったようにマルギットを見た。
「引き取りに?」
マルギットは目を丸くした。そうすると人好きのする雰囲気の顔になる。
「あの、失礼ですけれど、どういう縁か、お聞かせいただけますか?」
「なんというか……つまり」
「つまり……?」
私はちょっとうつむいて続けた。
「私の娘なんです」
マルギットは唖然としたような顔になった。
「え? ……ユリアナさんが、あなたの娘?」
「……はい」
私は膝の上に視線を落とし、つま先をいじっていた。
この問題に関して深く追求されるのは嫌だったのだ。
「な、なんというか……なんといえばいいのか」
マルギットは慌てふためいている。当然かもしれない。
「でも、あなたは、その……聖ドロテアにいらしたわけですよね?」
マルギットは、遠慮しつつも、どうしても確認せずにはいかない、というように言った。
「聖ドロテアに入る前に産んだんです。……事情があって、私はその子を置いて修道院に……。でも、やはり引き取ろうと思ってこちらへ来ました。そうするのが自分の務め……親としての務めだと思ったからです」
「シスター・カタリナ、……いえ、カタリナさん」
マルギットは改まった調子で言う。
「はい」
「あなたのご決意はご立派です。しかし、あなたが一度その子を捨てたということは、事実なのでしょう?」
「……はい」
私はうなだれたままでいた。マルギットにお説教をされるのは憂鬱な気持ちがした。
「失礼ですけれど、あなたはおいくつでいらっしゃるの?」
「……二十三ですわ、シスター・マルギット」
「聖ドロテアに入られたのはおいくつのとき?」
「十八です」
「その子をご出産なさったのは?」
「十七のときでした」
「そう……。たしかにお若いけれど、どうしても子供を育てられないという年齢ではありませんわね。世のご婦人がたは、もっとお若くしてご出産なさったり、しっかりと子育てなさっておられるのですから」
「……仰る通りですわ」
私は不本意ながらも、それを表に出さないようにして言った。
正直に言えば、いったい何がいけないのよ、という気持ちだった。子供を捨てた親が子供を引き取りに来ただけのことではないの。何をそう、ごちゃごちゃと言わなければならないの、というような。
その一方、自分は説教されるだけのことはしたのだ、とも思った。
これはマルギットの優しさなのだ。私は誰かに叱られることが必要なのだから。
「本当に、その子を引き取って育てるおつもりですの?」
マルギットに訊ねられ、私は顔を上げた。
もちろんそうだ。私は彼女を見つめた。
「そのつもりです」
「ゴドセヴィーナ伯爵家はもう無いのだと聞きました。あなたは貴族ではない……。生活をする方法があなたにはありませんわ、カタリナさん。お気を悪くなされるかもしれませんけれど、こういう方法はどうですの? あなたが聖イローナ女子修道院の修道女になられる……」
「それも考えましたけれど、結局、私はユリアナを他の子と同じように育てられるほど、心が広くないのですわ」
「自分の娘だけ、特別に贔屓してしまうと?」
「……そう思います。私は未熟な人間なんです、シスター・マルギット」
「……そうですか」
マルギットは頷いた。そして小さく嘆息した。
「親としては、当然のことだと思いますよ。でも、さっきも申しあげたとおり、あなたには生活の方法がない……。そのような状態で、ユリアナさんをあなたのところに戻すわけにはいかないのです。まして、あなたは一度娘を捨てたのですから」
「私の娘なんですよ!」
私は思わず声を荒げそうになったが、かろうじて自分を抑えた。
「……生活の方法ならありますわ、シスター・マルギット」
「本当ですの?」
マルギットは私が興奮しそうになったことも気にせず、穏やかに訊ねてくる。
さすがに、伊達に年はとっていないということだ。私もほっとして、気持ちが落ち着いた。
「伯爵家は存続します」
「……まあ!」
マルギットは驚いたように目をみはった。
「そ、それは良い知らせですわね、カタリナさん! でも、本当に……?」
「私が当主になるのなら、存続してもよいと国王陛下が仰せになられたのですわ」
“国王陛下”の言葉に、マルギットの背筋が伸びた。そう見えたような気がした。
「陛下直々に? では、本当に伯爵家は存続されるのですね。良かったですわ……!」
マルギットは本心からそう言っているようだ。
「銀鉱山を手放すことになりますので、領地からの税収は大幅に減るでしょう。それに、王家に対して支払うべき税が滞ったままですから、その支払いもあります。伯爵家は、今までに比べれば豊かではなくなるでしょう。……でも、親子二人が食べていけないようなことにはならないと思います。なんとか、ユリアナを育てることができると思っています。だからここへ来たのですわ、院長」
私はできるだけ冷静に説明した。
マルギットは頷いて聞いていた。そして、ついに、分かったというように微笑んだ。
「伯爵家が存続するのであれば、何も心配はいりません。カタリナさん、あなたにユリアナをお返ししますわ」
「……ありがとうございます」
私もほっとして言った。ようやく話がまとまったことに安堵したのだ。
「あの子をここへ連れてきたのは、前院長でした。今は行方不明になっていらっしゃいますが……。ですから、私どもも、どのような経緯であの子が孤児になったのかを存じなかったのです。でも、あなたが自分の娘だと仰られたので、腑に落ちたような気がいたします。前院長は、ゴドセヴィーナ伯爵家とは縁戚関係にあった方ですものね」
それに、とマルギットは続けた。
「顔立ちがとてもよく似ていらっしゃいますわ。私も、あなたをこうして前にしてお話しさせていただいて、しみじみ思いました。それが何より雄弁な証拠になりますわね」
「そ、そうですか」
私はどぎまぎした。ユリアナが私に似ているなんて、知らなかった。
──いや、フランツが言っていたかもしれない。「きみによく似ている」と……。
「娘に会えますでしょうか?」
「もちろん、すぐにでも」
マルギットは頷き、立ち上がった。
彼女が歩き出したので、私も立ち上がる。
彼女は院長室の扉を開いて廊下に出た。
静かな光に満たされた、美しい廊下が伸びている。空気は澄んで、しんと寒い。
やがて、さきほどの部屋が近づいてきた。また子供たちのにぎやかな声が聞こえてくる。
扉を開けると、中で、フィアや子供たちが駆け回って遊んでいた。笑い声が弾けている。
フィアは私を見て、私のほうへ歩いてきた。
「……まあ! すっかり話に夢中になって、修道女をここへ来させるのを忘れてしまっていたわ」
口元に手をやるマルギットに、フィアは「大丈夫です」と言った。
「ちゃんと見ていましたから」
「ありがとう、シスター・フィア」
マルギットが礼を言う。
フィアはにっこりとほほ笑んだあと、私の横に来た。そして、耳打ちするように訊ねた。
「ねえ、どうなったの?」
「もちろん、引き取れることになったわ」
私も彼女に言い返した。
「本当? よかったわね!」
フィアは無邪気に喜んでいる。
「……ねえ、ちょっと賭けない?」
私はそんなフィアに向かって、ふといたずら心を出して言った。
「賭けるって?」
フィアはきょとんとなっている。そういう顔をするとまだ妙に子供っぽく見える。
「ユリアナに、私とあなたのどっちが本当の母親かを秘密にしたまま、ふたりで声をかけるのよ。それで、どっちに来るか試してみましょうよ」
私は自分の思いつきを傑作だと思いながら言った。
フィアはあきれたような顔になった。
「何いってるの? カタリナ! そんなこと、しないほうがいいと思うわ!」
「何よ? 自分のところに来るとでも思ってるの? まさか?」
「まさかも何も、そういうことはしないほうがいいって言ってるの!」
「大丈夫よ。ユリアナは、私に顔が似ているそうよ。間違えるはずがないわ」
「子供を試すようなことをするなんて、ひどいと思うわ。私はやらないから」
フィアは頑なに言ってくる。
「何よ、面白くないわね! せっかく思いついたのに」
「カタリナの思いつきって、シスター・エミリアの思いつきと同じくらいひどいと思うわ……」
げんなりしたようにフィアが言う。
そして、マルギットが、中庭のほうからひとりの女の子を連れて戻ってきた。どうやら、ここで遊んでいた子供たちのなかにはいなかったらしい。他の部屋にいたのだろう。
私はその女の子を見た瞬間に、ひどく緊張してきた。手のひらが汗ばむのを感じる。
私は思わずフィアの後ろに隠れた。フィアは「ちょっと!」と唖然として言う。
「何してるの? ユリアナさんが来たのに」
「わ、分かってるわ! ちょっとどきどきして……思わず隠れたくなっただけよ」
私は赤い顔で言った。
そして、自分が母親らしく見えるだろうかとひどく気にしながら、フィアの前に出た。
自分の娘に五年か六年ぶりに再会する。
私が彼女を最後に見たのは赤ん坊のときだった。
ユリアナはずいぶんと大きくなっているように見える。でも、やっぱりまだ小さな子供だ。マルギットの後ろに隠れて、もじもじとうつむいている。私と同じような色の金髪で、たしかに顔立ちも似ているように思える。でも、うつむいているからはっきりとは分からない。
「ユリアナ。あなたのお母さまがいらっしゃったわよ」
マルギットが膝を折り、自分の後ろに隠れている小さな女の子を前に押し出した。
ユリアナはなおもマルギットの腕にしがみついて、離れようとしない。
「ユリアナさん。お母さまよ!」
フィアが私の後ろから言った。
私は緊張して声を出せなかったが、意を決して、「ユ……ユリアナ!」と叫んだ。
ユリアナは顔を上げた。名を叫んだ私をじいっと見る。
そして、「お母さま!」とかわいらしい声で叫んだ。
赤くなり、ひどく内気そうな表情をしたまま、まっしぐらに走ってくる。
「お母さま!」
ユリアナはもう一度叫んだ。
そして、まっすぐに飛び込んでいった──フィアの膝元に。
フィアはぎょっとしたようだったが、子供をはねのけたりはしなかった。身をかがめてユリアナを受け止めたあと、情けないような、申し訳ないような顔になって私を見上げてくる。
「カ、カタリナ……」
「なんであなたのほうに行くのよ! おかしいじゃない!」
私は真っ赤な顔で怒鳴った。恥さらしもいいところだ。
「ユリアナさん、お母さまはこっちの方よ!」
フィアは子供に向かって必死で言い聞かせている。
子供は怪訝そうな顔で私を見上げた。そして、おもむろに顔をしかめた。──子供のころの私そっくりに、癇癪を起こしたら手が付けられなくなるような、くしゃくしゃの顔になって、私を睨みつけた。
「お母さまじゃない……」
「お母さまよ!」
私は子供に向かって怒鳴ると、フィアの膝にしがみついている子供を無理やり引きはがし、抱え上げた。非力な私でも、それくらいの年の子供ならなんとか抱え上げられる。──でも、思った以上にすごく重い。
「お母さまじゃない!」
ユリアナはぐずりだした。フィアに向かって両手を伸ばして暴れだす。
「お母さま!」
「私がお母さまよ。……それじゃ、失礼させていただきますわ、院長!」
私は頭にきながらくるりと踵を返した。
「あ、お待ちになって……書類などが、まだ!」
マルギットが慌てたように叫ぶが、振り返らなかった。
「明日、改めてうかがいますわ!」
私は断固として言ってその部屋を出て行った。
ユリアナは私の腕のなかで大泣きしはじめた。
「シスター・マルギット! シスター・マルギット!」
「いいこと? 私があなたの母親なのよ、ユリアナ! ぐずって泣くのは許さないわ!」
私は腕のなかの娘をしかりつけた。
娘はますます大泣きして、「いや」を連呼しながら手足をばたつかせて暴れ、手が付けられなくなった。私は落とさないように抱えるのに必死になって、敷地の外に出るころにはすっかり疲労困憊してしまった。
──まったく、昔の私だって、こんなに手がかからなかったのに!
──たぶん、だけど。
2012 / 10 / 19. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 16

それから一か月ほど、王城で過ごした。
ユリアナは新しい環境になじめないようで、四六時中癇癪を起こしたり、不機嫌な顔をしたりした。そして、隙があれば私のもとから脱走しようと試みた。
私はまるで、放し飼いにしてウサギを飼っているような気分になりながら、ユリアナが逃げ出すたびにそれを探した。あるときには何時間も姿を消したままなのに頭に来て、「もう知りませんからね!」とそこらじゅう歩いて怒鳴ったりもした。そういうとき、ユリアナはやはりすぐには姿を見せないのだが、夕食どきになるとどこかから現れて、知らん顔をして私と同じ食卓につくのだった。
どうもこの子は賢いのだ、と私は思った。年のわりに。
賢いし、それに、全然言うことをきかない。……最悪だ!
しかし一か月も経つと、さすがにユリアナも私の存在に慣れてきたようで、言うことをきかないまでも、私の言うことをまったく無視する、というようなことは少なくなってきた。けれど相変わらず口数は少ない。ほとんど喋らないし、何かあるとすぐに不機嫌そうな顔つきになる。私は自分のやり方が正しいのかどうか心配になって、マルギットのところへ問い合わせたりもしたのだが、ユリアナは孤児院にいたときから物静かな子だったという。いつも隅で、ひとりきりで遊んでいるような子供だったらしい。
思えば、私の母は早くに亡くなった。父は私が十四・五の少女になったころに後妻を迎えたけれど、後妻は二十代と若くて、私とはあまりそりがあわなかった。ほとんどまともに話したこともない。表だって争ったりはしなかったけれど、心を許すことはなかった。
私は母親というものを知らないのだ、と改めて思った。
ユリアナにも、どう接していいのか分からない。生意気な態度をとられると、つい怒鳴りつけたくなる。
こんなことではいけないと、他に子供を持っている友人がいないかどうか考えるのだが、十代のころから修道院に入っている私にそんな友人がいるはずもない。
いろいろと悩んだ挙句に、私はやはりというか──フィアのところへ行った。
相変わらず私はあの人を馬鹿にしているところがあるのだが、その反面、何かあったときに頼れるのはフィアだけではないかと思ったりもする。


「──どうしてわたしに訊くの? そんなこと……」
フィアは例の村の例の家の例の居間で、脱力したように私に訊いた。
「だって、結婚してる……しそうな人って、あなたしかいないんだもの。仕方ないでしょ」
「でも、わたしは子供を産んでいないし。子供の育て方なんて聞かれても、分からないわ」
フィアが言うのももっともだった。
私は相談する相手を間違えている。そうは思いながらも、他に相談する人がいないのだからしかたない。
「じゃあ、早く産んでみてよ」
「無茶言わないでよ! まだ結婚式もしてないのに!」
季節はまだ冬。ようやく年が明けたところで、外には雪が積もっている。ここまで来るのもすごく大変だった。半日で着くはずが、まる一日かかってしまい、もう夜だ。
「大教会に行って、聖母に寄付して、祈り札をもらえば子供ができるんでしょ?」
私は嫌がらせのように言った。
「早くそうしなさいよ」
「………」
フィアはむっとしたような顔で、その顔を赤くして押し黙った。
このぶんだと、どうやら自分の間違いに気づいたらしい。
「そんなことする必要はないって、言われたわ……」
何も知らなかった自分が恥ずかしいとでもいうような、怒ったような顔である。
「へえ……。ついにあなたもそのことに気づいたわけね。同居半年にして」
私は暖炉で隅が弾ける音を近くに聞きながら頷いた。
目の前のテーブルには暖かいお茶と、お菓子がある。今日のものは焦げていない。
「それにしても、結婚式まであと何か月もあるのに、その前に子供ができたりしたら大変よね」
「そうなるようなことはしないわ……結婚式まで!」
フィアは真っ赤になりながら断固として言った。何か意に決したものがあるらしい。
「いまのところ、い、一か月くらい……してないもの。このまま春まで過ごすつもり!」
「変なことしてると、浮気されるのではないの?」
私は心配になって言った。
「言っておくけど、あなたが一緒に暮らしている人は、別にあなたひとりで我慢する必要なんて全然ない人なのよ。王都の貴族の女たちは涎を垂らしているでしょうし、村の女たちだってこっそり狙ってるかもしれないわよ」
「そ、そんなことない……」
フィアはそう言ったが、その顔に一瞬動揺が走ったのを私は見た。
この村には何度か足を運んだだけだけれど、若くてきれいな娘が何人かいるのは見た。ああいう娘に目移りされたらどうするのだろう? それとも、そんなことにはならないと自信があるというつもりだろうか?
「まあ、あなたをいじめるつもりで来たわけではないから、この話はやめるけど」
どうせ将来的には、そういう問題で泣かされる羽目になるに違いないのだ。と私は思った。
「とにかく、あなたに聞きたいのは子供のことよ。私の」
「だから、そんなこと聞かれても分からないってば!」
フィアは癇癪を起こしそうな勢いで言う。
「ユリアナさんはあなたの子供でしょう? あなたが一番よく分かるはずじゃない!」
「それが、分からないのよねえ、ちっとも。あの子が何を考えているのか……」
私は考え込むように椅子にもたれて、髪の先をいじった。
今日はユリアナは城の使用人に預けてきた。その使用人の子供と仲が良くなっているらしく、このところ入り浸りになっているからだ。使用人も信用できそうな女性だったし、一日くらい預けてもいいと思って預けてきたのだが、この雪だと今晩は戻れそうにない。
まあ、大丈夫だとは思うけど……。
「最近は少し言うことをきくようになったけど、だからといって、なついているわけでは全然ないわ。でもあなたって、子供たちにすごくなつかれていたじゃない。どうやったらああなれるわけ? 何か秘密の飴でもあげてるの?」
「そうじゃなくて。わたしはただ……」
フィアは口ごもった。それから、ちょっと考え込んだ。
「自分が子供だったら、こうされたいと思うことを、するようにしてるだけだけど……」
「『こうされたいと思うこと』?」
「……うん。たくさん遊んでほしいとか、時々褒めてほしいとか、そういう気持ちを、そのままやってるだけだけど。自分が子供のときには、そういうふうに思ったろうなって」
「ふうん……」
私は曖昧に頷いた。なんとなく分かるような気はしたけれど。
「私、自分が子供のころどうだったかなんて全然覚えていないわ」
「カタリナのことだから、きっとすごく気が強かったんだと思うわ」
「……そう言われると気分がよくないけど、たぶん、そうでしょうね」
「とにかく、『分からない』なんて言ってないで、一日でも長く一緒に過ごせばいいじゃない。まだ引き取って一か月しか経ってないのに、他の人に預けたりするなんて、あんまり……しないほうがいいと思うわ。そんなこと、他人のわたしが口を出したくないけど」
フィアのお説教はたしかにもっともだ。
まさかフィアに説教されるようになるとは思わなかったけど……。
「ユリアナさんにとって、赤ん坊のころに一緒にいなかったあなたは、まだ本当の『お母さま』じゃないんだわ。だから、少し反抗してるんだと思う。それも当然のことよ、カタリナ。分かるでしょ」
「……分かるけど、あなたに言われるとなんだか腹が立つわね……」
「わたしのところに聞きに来るのがいけないのよ。……でも、わたしがあなたなら、一日だってユリアナさんを手放したりしないわ」
「た、たった一日だけよ。それに、今日は雪で帰れないんだからしょうがないじゃない」
「今日は仕方ないけど、ユリアナさんは、どうしてあなたが戻ってこないのかって、すごく不安になると思う」
「そうかしら? だってあの子、言うことをきかないのよ。私のことを他人みたいに睨むし」
「だから、それはあなたに反抗してるだけよ」
「なんであなたって子供の気持ちが分かるわけ? ……あ、分かった、あなたがまだ子供だからよ!」
私は真実を掴んだ、というように思わず叫んだが、フィアに冷たい目で見られた。
「カタリナだって、わたしとたいして変わらないと思うけど……?」
「………」
「いくらあなたを睨んでいたって、あなたが戻ってこなかったら、ユリアナさんはきっと悲しむと思うわ。絶対そうよ」
フィアが何度も強く言うので、私も少し落ち着かない気分になってきた。
「そ、そう? 私がいなくて、あの子、寂しがると思う? ……ほんとに?」
「寂しがるし、寂しがらせたらいけないと思う」
「じゃあ……か、帰るわ」
私は思わず立ち上がった。
よく考えれば、あの使用人の女性も信用できないかもしれないし……。雰囲気からするとなんとなく信用できるように見えたけど、私はその人のことをほとんど知りもしない。使用人の子供と遊んでいるうちにけがをするかもしれないし、ユリアナを誘拐して身代金を要求してくるかもしれない……。
「だけど、外は雪よ」
「な、なんとか帰れるわよ。……ねえ、村から馬車は出てる?」
「何日かに一度、王都に荷物を運ぶ馬車が出るけど、今日はないわ。それに、荷馬車だし」
「じゃ、どうやって戻るって言うのよ!」
私は癇癪を起こした。フィアは困ったような顔になる。
「王都から来た馬車は?」
「そんなの、とっくに帰ったわ」
「村の誰かに頼めば、馬車を出してくれるかもしれないけど……」
「お願い、誰かに頼んでくれない?」
「あの、カタリナ。わたしから言っておいて悪いけど、明日の朝になってから戻れば? 明日の朝なら、誰かに頼むにしても、頼みやすいと思うの。これから王都に馬車を出すとなると、暗いし、雪道だし、今晩中には戻って来れないでしょ? だから……」
今晩戻れないことを承知で、馬を出してくれる人などいない、という口ぶりだ。
たしかにそうだろう。しかし、私も私で引き下がれない。
「だめよ。今晩、戻ると決めたら戻るわ。あの子に何かあったら、私、自分が軽はずみにひとりで出てきたことを後悔することになる。……正直いって、なんだかすごく不安になってきたの。胸がどきどきするのよ、フィア。どうしてだかわからないけど」
「それは……あなたがお母さんだからよ!」
フィアはふと、感慨深げに言った。
「なんとかしてあげたいけど……」
フィアも、困ったような顔で家の扉を開ける。
外からものすごい冷気が吹き込んできた。それに、外はもう真っ暗だ。
空には星が輝いている。そんな時間だろうかと思ったけれど、冬は日が落ちるのが早い。
「さ、寒いわね……」
私は思わず身震いした。暖炉で温められた室内からすると、凍えるように冷たい風に感じる。
「やっぱり、無理なんじゃないかしら」
フィアもそう言って扉を閉めようとしたが、「……あ」と呟いた。
誰かが馬で戻ってくる気配がする。
しばらくすると、分厚いマントに身を包んだ男が、家の前で馬を停めた。開いたままの玄関扉から漏れる明かりのなかで下馬し、怪訝そうな顔でフィアと私を見る。
「どうしたんだ?」
「あ、お、おかえりなさい!」
フィアが慌てたように言った。戻ってきたのは、当然ながら彼女の未来の夫だ。
「また来てたのか」
彼女の未来の夫──ヴィクターは、正直なところ、いささか呆れたように私を見た。
「よく来るな」
私がこの家に泊まるたびに、彼は階下の長椅子で寝させられるのだから、内心でちょっと不愉快に思ったとしてもしかたがない。
「今日はなんの用事で? “女伯”」
良く通る、やや低いが響きのよい声で女伯、と呼ばれて、私は我に返った。
そうだ、私はゴドセヴィーナ“伯爵”なのだ。他でもない、目の前の人の命令で、父からその権限を譲り受けることになった。
名もない小娘ではない。
「子育ての相談に来たのですわ、陛下」
私は初めてまともに彼と話をした。
「相談する相手が間違っている、と思うが……?」
彼はどういうことだと言わんばかりに眉をひそめて言う。
「間違っていません。彼女は私に良い助言をくれました」
「そうか……」
別に聞きたくもないというような顔で言うが、私は続けた。
「つまり、たとえ一晩でも、引き取ったばかりの娘と離れていてはいけない、ということです。私は今日はこちらに泊めていただく予定でいたのですが、自分の行動は軽はずみだったと思いなおしました。いまから、どなたかが王都まで馬車を出してくださらないかどうか、村を回ってみるつもりでいます。娘を悲しませたくありませんから」
私は一か八かで言った。
彼は渋い顔になった。それからフィアを見た。
「……つまり、どうしろと?」
「なんとか……できる?」
フィアはか細い声で訊ねた。
「なんとかも何も、こんな時間に王都まで馬車を出す人間などいないだろう……」
彼は一度は脱ぎかけたマントを羽織りなおした。
「もう一枚厚手のやつを持ってきてくれ。二階にある」
「わ、分かったわ」
フィアは急いで二階へ行った。
そのあいだに彼は、私に自分のマントを着るように指示した。
「年明けの夜は冷えるが、我慢してもらうしかないな」
「文句は言いませんわ。自分で望んだことですから」
私は内心ひどく緊張しつつも、頷いて言った。
やがてフィアが、分厚いマントを持っておりてきた。わたしは自分のマントの上にそれを羽織った。かなり保温性があり、さすがに暖かい。
「前に乗ってくれ。後ろだと、居眠りでもしたら落ちる」
彼は私に手を貸しながら、さきほど自分が乗ってきた馬に乗せた。
そして自分はその後ろに乗る。手綱を取るために前に回された腕が自分のわきに触れるので、私はますます緊張して、正直なところ凍りついたようにカチカチになってしまった。
「中に入ってろ」
彼はフィアに命じた。フィアは外まで出てきていた。
「気をつけてね」
フィアは私と彼の顔を交互に見た。
「夜明け前までには戻る。閂をかけてから寝ろよ」
「うん……行ってらっしゃい!」
内心ではどんな気持ちか分からないが、フィアはそう言って頷いた。
「あなたには、本当に迷惑ばかりかけたわね。……ごめんなさい」
「いいの、カタリナ。聖ドロテアにいたとき、あなたって、いつもどこか寂しそうだった。ずっとどうしてかなって思ってたけど、その理由が分かって、私も謎がとけたような気持ちよ。ユリアナさんと仲良くしてね」
「……ありがとう。そうするわ」
私は頷き、フィアに手を振った。
フィアも手を振りかえす。
馬が走りだした。ゆっくりと。
すぐにフィアの姿は見えなくなる。私は振り返るのをやめた。
後ろの人の胸が自分の背中についているけれど、互いに分厚いマントをまとっているから、直接肌に触れるような感覚ではない。そのことに私はほっとする。……これが夏だったら、フィアに悪いと思わなければいけないところだわ。
馬は村を出るまではゆっくりした速度を保っていた。
「本当に、あなたにもフィアにもお世話になりました。感謝申し上げます、国王陛下」
「フランツ=ゴドセヴィーナのことは残念だった」
彼は簡潔に言った。
「しかし、伯爵家は存続する。あなたには仕事が多く残されているぞ。女伯」
「お預かりした領地の管理が行き届きますよう、最大限、注意を払ってまいりますわ」
「そうしてもらえるとありがたいな。……お互い、できることをやっていくしかない」
「本当に」
私は彼の謙虚さに驚きながら言った。
国王というからにはもっと尊大な人物だろうと思っていたのに、全然違っている。
私は彼がフィアを選んだ理由がなんとなく分かった気がした。たぶんこの人は、貴族の女のようなものは逆にあまり好きではないのだろう。その点フィアは素直で、本当に普通の村の娘のようだから、それが気に入っているに違いない。
「スピードを上げる。着くまで黙っていたほうがいい、でないと舌を噛む」
「分かりました」
私は頷いた。
その宣言通り、馬は村を出ると、感動的なほどの速さで走った。
馬車が何度か往復して固めたのであろう道のうえを、よく見分けて走ってゆく。
私はそれでもだいぶ緊張していたが、そのうちに、眠気に勝てなくなってきた。気がつくと頭を揺らしてうとうとしている。
いつのまにか後ろの人の片腕が私の胴にしっかりと回っていた。私はそれにも気づかず、案外、深い眠りのなかに入っていった。夜の世界のなかにもひときわ白く輝く雪のなか、力強く大地を蹴って走る馬のリズムが心地よいせいだろうか? 馬には、あまり乗ったことがないのだけれど……。
馬上で、私は夢を見ていた。
息を切らして戻った私に、ユリアナが、今度こそ「お母さま!」と言いながら抱きついて来るという夢だ。私はその夢を見ながら、唇にうっすらと笑みを浮かべていた。それは幸せなひとときだった。
2012 / 10 / 19. Posted in カタリナの独白 [編集]

カタリナの独白 17 【最終話】

──現実は違っていた。
すっかり使用人の女と子供になついたユリアナは、その使用人の家で遊び疲れたあと、実に心地よく眠っていたらしい。それを私が夜中に行って起こしたものだから、ぐずるわ泣くわで、もうさんざんだった。
しまいには私はユリアナをその家から引きずり出さなければならなかった。
使用人の女も不安そうにハラハラして見ているし、その家の子供は私を敵と勘違いして足を殴ってくるし──男の子で、騎士にでもなったつもりなのだろうか、棒切れを手にしていた──それを蹴飛ばしかける私を使用人の女が睨んでくるしで、とにかく、ひどい有様だった。
泣きわめくユリアナを抱え上げて、城館の中の部屋に戻る。
ユリアナは本当に、気が違ったように泣いている。私は自分が人さらいにでもなったような気がして、ひどい気分だった。

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2012 / 10 / 20. Posted in カタリナの独白 [編集]
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